家族の庭(‘10) マイク・リー <今まさに、奈落の底に突き落とされた「孤独」の恐怖の崩壊感覚>

イメージ 11  人間洞察威力の鋭利なマイク・リー監督の比類ない作家精神の独壇場の世界



人間洞察力の鋭利なマイク・リー監督の厳しいリアリズムが、一つの極点にまで達したことを検証する一級の名画。

主に下層階級の家族をテーマにして、そこで呼吸を繋ぐ人々の喜怒哀楽を、恐らく、「様々な偶然性に依拠しつつも、〈自力突破〉なしに糧を得られるほど人生は甘くない」という視座で描き続けてきたと思われるマイク・リー監督の表現宇宙が、本作で最高到達点を極めたのではないか。

とうてい映像によってしか表現し得ない、シビアなるラストカットで閉じる、本作のラストシークエンスの決定力の構図の提示の凄みに、身震いするほどだった。

そんなマイク・リー監督が構築した本作の基幹メッセージを、私なりに解釈すれば、以下の文脈に収斂されるだろう。

難しく言えば、無数の選択肢から、時には懊悩しつつ、特定的にチョイスしてきた時間の終結点である「現在の〈私の生〉」の有りようは、「現在の〈私の生〉」というリアルな着地点に至るまでに形成してきた〈自己像〉の価値の総体であって、特別なケースを除けば、基本的には、「自己責任」のうちに還元されるべき何かである。

「自分の人生に責任を持ちなさい」。

要約すれば、以上の把握に尽きるだろう。

この把握に則って、私なりに捉えた本作の心象世界の基本骨格に言及したい。

即ち、本作は、単に「同情」の対象人格として受容される行為の中で感受する、単に「寂しさ」でしかない甘え含みの「孤独感」が、正真正銘の「孤独」の恐怖のうちに対象人格を搦(から)め捕ることで、今まさに、奈落の底に突き落とされたときの対象人格の崩壊感覚 ―― この解釈に止めを刺すのではないか。

ここから、物語の世界に入っていきたい。

単に「寂しさ」でしかない甘え含みの「孤独感」を託(かこ)つ、その対象人格の名はメアリー。

ロンドンの某病院に勤める女性事務職員である。

そのメアリーに対して「同情」を注ぎ、事あるごとに、彼女の「孤独感」を吸収し、浄化する役割を果たすのが、「地産地消」を意識下に据え、一定の収入が期待し得る市民菜園を熱心に勤(いそ)しみ、規則正しい禁煙生活に象徴される、セルフメディケーション(自己健康管理)を継続させるような共通の価値観によって結ばれているが故にか、仲睦まじい夫婦生活を40年にわたって延長させている中流家庭を、仕事と両立させつつ難なく切り盛りしている、極めて自立的な女性医療カウンセラー。

その名はジェリー。
 
メアリーと同じ病院に勤めていて、医師と連携しながら、心理カウンセラーの仕事をこなす初老の婦人である。

物語は、現役の地質学者であるトムとジェリーの、人も羨む円満夫婦の生活拠点を中枢スポットにして、そこで拾われた日常的営為の中に、メアリーに代表される、「孤独感」を託つ者たちが、市民菜園に勤しむ休日に訪ねて来て、かの円満夫婦の人生経験豊富なアウトリーチによって慰撫(いぶ)されるという、至ってフラットなエピソードを繋ぐものだが、そこで選択されたエピソードが醸し出すリアリティの濃度の高さは、人間洞察威力の鋭利なマイク・リー監督の比類ない作家精神の独壇場の世界であった。
 
 
(人生論的映画評論・続/家族の庭(‘10) マイク・リー <今まさに、奈落の底に突き落とされた「孤独」の恐怖の崩壊感覚>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/11/10.html