アンチクライスト(‘09)  ラース・フォン・トリアー<どのように振舞っても救われない人生彷徨の、「壮絶なる破綻」の絶望的な振れ方>

イメージ 11  「救い」の欠片すら拾えない「狂気」に充ちた映像の凄み



ラース・フォン・トリアー監督 ―― またしても、途轍もない映画を作ってくれたものだ。

作り手の「狂気」が、それを演じる俳優に憑依し、それが化学反応を起こすことで、止まる所を知らない程に裸形の「狂気」が氾濫する映画になった。

相変わらず、一切の虚飾と欺瞞を剥ぎ取って、容赦なく炙り出される映像からは「救い」の欠片すら拾えないのである。

トリアー監督の「狂気」が殆どアナーキーに暴れ捲る圧倒的映像に比べたら、覚悟と胆力、そして、「狂気」の才能なしに「社会派映画」を構築したつもりの邦画界の、微温的な風景の欺瞞性など寸秒で吹き飛んでしまうだろう。

トリアー監督が構築した「狂気」に充ちた映像を受容する私は、そこに構成力への不満が残ったにしても、「救い」の欠片すら拾えない本作を高く評価する。

 ところで私は、この「狂気」に充ちた映像を観終わった後、イングマール・ベルイマン監督の「処女の泉」(1960年製作)を想起した。

以下、「アンチクライスト」で描かれた文化的背景に通底するので、「処女の泉」を批評した拙稿を部分引用したい。

キリスト教化以前に存在した土着信仰を集約した北欧神話をベースにした本作で描かれた、件の神話の最高神であり、『戦闘神』でもあるオーディンの存在は、キリスト教にとって排除すべき異教神である。その象徴が、豪農である両親の命を受けて、教会にローソクの寄進に行くことになった一人娘のカーリンを呪詛する、父なし子で淫乱な下女のインゲリ。

本作の中で、教会への遥かな旅程の中で、インゲリをオーディン神信奉の仲間であると見抜いた男が登場する場面に見られるように、彼女は明らかに、キリスト教と対立する異教神の具現的人格として描かれている。『キリスト教V.S異教神』という映像の骨格が本作を支えていて、この形而上学的な問題提起こそが物語のプロットラインを貫流していると言っていい。 

インゲリの従順と敗北の象徴的シーンは、ラストシーンで、『泉』にシンボライズされた『聖水』を、繰り返し顔を拭う描写の内に自己完結するに至ったのだ。無辜の少年を殺害するに至ったテーレが犯した罪が、安易な贖罪によって神の赦しを得るという一連の行為それ自身を、本作は柔らかに拒絶する含意を持つ映像であったと見ることも可能である。

 ある意味で、『贖罪の拒絶』こそ、『神の沈黙』に向き合い、対峙する作品を発表し続けて来たベルイマンの真骨頂と言えるからだ。『我が子の亡骸の上に、神を称える教会を建てます』と誓った男が、神の恩寵を目の当たりにしたという幻想を信じるレベルの精神構造を持つ男の未来には、恐らく、悠久の平和など訪れないであろう」
ここで重要なのは、オーディン神を信奉し、森を怖れるインゲリという異教徒を登場させたことである。

キリスト教以前の世界では、主神「オーディン」を中心とした限りなくヒューマンで、自然信仰・自然崇拝の濃厚な「北欧ゲルマン神話」や、「ドルイド」(ケルト人社会における祭司・魔術師)を中枢にした、「ケルト信仰」などに代表されるように多神教的な世界観(「ゲルマンの神々」や、「ローマの神々」を信奉する、ローマ帝国下での「ローマ神話等々)がヨーロッパ全土に深く根を張っていた。

ところが、一神教であるユダヤ教から派生したキリスト教によって、自然信仰・自然崇拝の中枢スポットである「森」に依拠した多神教的な世界観が駆逐され、やがて、「森は『悪魔の教会』」(「アンチクライスト」での妻の言葉)であるという認識のうちに、そこに集う女性たちは、超自然的な「魔術」を駆使してキリスト教世界の人為的な観念系・生態系に害を及ぼす「魔女」と括られ、16世紀から17世紀に吹き荒れた魔女裁判の中で、宗教的異端者=異教徒としての彼女たちは焚刑の犠牲に処せられていく。
 
思うに、キリスト教の世界観では、神の命令に逆らって、蛇の誘惑に負けたイヴが、禁断の実をアダムと共に食べたことでイヴの原罪性が強調され、その精神的土壌が女性蔑視のメンタリティを生み出していく。

これが、キリスト教の男性優位社会の女性蔑視の精神風土と化し、「悪魔の教会」に蝟集(いしゅう)する「魔女」である女性たちを特化して、「無辜(むこ)の民」を含む多くの女性たちへの焚刑に繋がっていくのである。

但し、「魔女狩り」の犠牲者には、少なからぬ男性たちが存在したり、多くのキリスト教徒が含まれていたり等々の事実を否定できないので、「魔女狩り」の本質が、キリスト教会主導による宗教的異端者排除や、女性蔑視感情に起因する「魔女」の特定化と恣意的排除という把握には、ステレオタイプで伝聞情報を決めつける危うさが内包されている点を無視できないだろう。

 
(人生論的映画評論・続/アンチクライスト(‘09)  ラース・フォン・トリアー<どのように振舞っても救われない人生彷徨の、「壮絶なる破綻」の絶望的な振れ方>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/01/09.html