善き人のためのソナタ('06)  フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマル <スーパーマンもどきの密かな睦み―或いは、リアリズムとロマンチシズムの危うい均衡>

イメージ 11  序 「善」なるものという確信的理念系



恐らく、初めから人間が普通に生きていくレベルの自由を保障されている「西側」に住む感覚が、それ以外の感覚を経験し得ないほどに自我の内に張り付いてしまうと、その自我は「自由の価値」の実感を改めて感受する時間とは無縁な形成性の中で、その固有の展開を様々に身体化していくであろう。

その自在性こそが、「西側」に呼吸を繋ぐ者の自我のごく普通の様態なのだが、そこで作り上げられた感覚によって、それとは異質な形成性を示す自我の有りようと遭遇するとき、そこで垣間見る「自由の価値」の絶対的な欠乏感に対して、「あってはならない由々しき現実」という把握以外に反応する術を持ち得ないに違いない。

些か困ったことに、その把握の内には、その自我が馴染んできた観念や文化、例えば、「民主主義」、「ヒューマニズム」、「自由恋愛」、「自在なる芸術表現」、「闊達な議論」等の、ごく普通の人間学的文脈の表現の価値を天賦のものと決めつけているから、それを保持しにくい国家に住む人々の不幸を絶対化してしまう心理傾向を持ちやすいということだ。

それ自体、「西側」に呼吸を繋ぐ者にとっては何の不都合もないだろうし、その価値の拡大的定着を図っていく努力も捨ててはならないだろう。

ところが、その「普遍的価値」を、人間それ自身の「善悪」論の基軸にして、その価値を保持しにくい国家に住む人々の不幸を絶対化することで、その人たちにその価値を認知させ、「善」なるものの覚醒を促し、「人間としての本当の喜び」を共有したいと願う心理が、例えそこに相応の抑制的表現によって均衡を保持していたとしても、それが確信的な理念系によって押し出されてくると、しばしば人間の心の奥に澱み、時には激しく葛藤する様態を晒すであろう、普段はとても見えにくい複雑で繊細な情感的世界の文脈を拾えにくくなってしまうのである。

一貫して「西側」に呼吸を繋ぐエリート青年によって創作された、「善き人のためのソナタ」という頗(すこぶ)る評判の良い映像作品を観終わったとき、事態をリアリズムによって把握する堅固な習慣を身につけてしまった私の感性には、以上のような感懐が印象深く刻まれたのである。



1  「善き人」に変容していく心理的プロセスの跳躍(1)



本作への私の感懐を、もう少し具体的に書いてみる。

結論から言って、作品の出来栄えは決して悪くない。充分に抑制も効いている。テンポも良い。映像の導入も見事である。

そして何より、本作の背景となった社会の権力機構の描写については、相当のリアリティを感じさせる重量感を持っていて、一つの時代の、特殊な国家の、その特異な有りようが、観る者の皮膚感覚にダイレクトに伝わって来たのも事実。

「フロリアンヘンケルス・フォン・ドナースマルク監督は、この映画のため4年間にわたって徹底的にリサーチをしました。自身は当時の西ドイツ出身のため、旧東ドイツの実態をつかむまでにこれほどの時間を要したとのこと。
 
大量の文献を読み、当時の東ドイツを知る人々、元シュタージ職員、その犠牲者に実際に会って何時間もインタビューする。その中で多くの矛盾する話も聞いたけれど、最終的にはこの時代の一つのまとまったイメージ、この時代が抱えていた問題をはっきりとつかむことができたそうです。また出演者やスタッフの中にも多くの旧東ドイツ出身者がいて、彼らの個人的経験はこの映画に多大な真実味を与えたと言います」(「All About」2007年 1月 31日より)

以上の一文を読んで了解し得るように、本作を映像化するに当って、ケルン生まれの若き監督が、4年間にも及ぶ丹念な取材を経てきたという営業努力が、その初の長編作品に結実したのであろう。

しかし、少々厭味を込めて言えば、彼の営業努力の成果が映像に反映されたのは、国家保安省(シュタージ)に象徴される全体主義国家の権力機構の内幕に関する描写においてであって、殆どそれ以外ではなかったと思われるのである。
“この曲を聴いた者は、本気で聴いた者は、悪人になれない”などという、恥ずかしくなるほどのスーパーインポーズに込められた、あまりに創作的で青臭いメッセージに集約される映像には、一貫して「感動のヒューマンドラマ」を、些かロマンティシズムの濃度の深い視界に捕捉して止まない作り手の意図が、観る者に容易に見透かされる甘さを露呈していたと言わざるを得ないのだ。

それにも拘らず、それが特段の厭味にならない程度の緩衝地帯、即ち、限定的なリアリズムによって相対化された映像導入が、際立って目立たない限りの作為性を、一定程度中和化することで補償された作品の質は効果的だったが、しかし相当に危うい均衡をギリギリに保持し得たという印象だけは拭えなかったのも事実。 

この種の問題作を映像化するにしては、そのプロット展開のサスペンスフルな娯楽性と、充分過ぎるほどの巧妙な創作性の濃度の深さが、結局、女の死を前提にしなければ成立し得ないだろう予定調和のエンディングの嵌め方の内に、奇麗に流れ込む以外に軟着できなかった映像の嘘臭さを浮き上がらせてしまったのである。

シュタージの養成機関での教育、盗聴の実態とその乱暴極まる情報収集の現実、そしてシュタージによって盗聴される側にいた、「反国家分子」と称される者たちの置かれた不安と恐怖に満ちた生活の実態、等々についての描写は相当のリアリティを保証するものだったが、残念ながら、映像のリアリティはその範疇を逸脱することが叶わなかった。

なぜなのか。

「シュタージの実態を抉った問題作」としての評価が定まった感のある本作が、「理念系の快走(?)」によって突き抜けてしまっていたからである。
 
“この曲を聴いた者は、本気で聴いた者は、悪人になれない”などという、恥ずかしくなるほどのスーパーインポーズに込められた、あまりに創作的で青臭いメッセージに集約される映像には、一貫して「感動のヒューマンドラマ」を、些かロマンティシズムの濃度の深い視界に捕捉して止まない作り手の意図が、観る者に容易に見透かされる甘さを露呈していたと言わざるを得ないのだ。

それにも拘らず、それが特段の厭味にならない程度の緩衝地帯、即ち、限定的なリアリズムによって相対化された映像導入が、際立って目立たない限りの作為性を、一定程度中和化することで補償された作品の質は効果的だったが、しかし相当に危うい均衡をギリギリに保持し得たという印象だけは拭えなかったのも事実。 

この種の問題作を映像化するにしては、そのプロット展開のサスペンスフルな娯楽性と、充分過ぎるほどの巧妙な創作性の濃度の深さが、結局、女の死を前提にしなければ成立し得ないだろう予定調和のエンディングの嵌め方の内に、奇麗に流れ込む以外に軟着できなかった映像の嘘臭さを浮き上がらせてしまったのである。
 
 
(人生論的映画評論/善き人のためのソナタ('06)  フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマル <スーパーマンもどきの密かな睦み―或いは、リアリズムとロマンチシズムの危うい均衡>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/03/blog-post.html