八日目の蝉('11) 成島出 <「八日目」の黎明を抉じ開けんとする者、汝の名は秋山恵理菜なり>

イメージ 11  個の生物学的ルーツと心理学的ルーツが乖離することで空洞化した、屈折的自我の再構築の物語



本作は、個の生物学的ルーツと心理学的ルーツが乖離することで空洞化した自我を、日常的な次元の胎内の辺りにまで、深々と引き摺っているような一人の若い女性が、その空洞を埋めるに足る相応の自己運動を継続的に繋ぐ熱量を自給し得ない、「絶対的喪失感」に絡みつかれた自己像に関わる矛盾を、心理の奥底に張り付く「唯一の柔和な思い出」の渦中に、自己投入するための内的過程を開くことで、絶望的に乖離した屈折的自我を統合し、再構築する物語であると同時に、そのような乖離した自我を作ってしまった「母なる女」たちの、その「母性」の有りようを、相当程度において極端な物語設定の中で描き抜いた物語である。

個の生物学的ルーツとは、夫の愛人に、乳児である娘を奪われた女のこと。

その名は、秋山恵津子。

奪われた乳児の名は、秋山恵理菜。

そして、乳児を奪った女の名は、野々宮希和子

希和子によって命名された薫こそ、母と信じる女と、4年間、「母子カプセル」の如き、母子癒着の原型イメージと思しき関係を繋いだ恵理菜の乳児名である。

秋山恵津子は、我が子の、乳幼児期における最も重要な発達課題に関与し得なかったばかりに、「母性」の発現を穿(うが)たれてしまい、形成的な「母性」の発現を奪った誘拐犯である女を憎み続けただけでなく、「母性」の発現を穿たれてしまったことで、「血を分けた他人」でしかない娘との心理的距離を埋められず、「愛しているよ」と言いながら、娘の「良い子戦略」を見透かし、結果的に突き放すという、殆どダブルバインド的な愛情欠損の母子像を作り上げてしまったのである。


彼女こそ、本作の中で、娘の恵理菜と同様のレベルにおいて、甚大な心的障害を負った女性であると言えるだろう。

本作のオープニングシーンの、冥闇(めいあん)の法廷場面が、それを端的に表現していた。

以下、稿を変えて再現してみよう。



2  悲哀なる者 ―― 汝の名は秋山恵津子なり 



 「必ず、夜中に目が覚めました。4年間、毎晩です。眠っていると泣き声が聞こえるんです。悲鳴のような赤ちゃんの泣き声です。私に助けを求める声です。眼が覚めてみると、恵理菜ちゃんは、どこにもいない。私は母親なのに、抱いて慰めることもできないんです。あの子が戻って来るまで、本当に気が狂いそうでした。私たち夫婦にとって、恵理菜ちゃんは、かけがえのない宝物でした。戻って来た恵理菜ちゃんは、私たちの子に間違いありませんでした。けれど、4歳の恵理菜ちゃんには、私たち夫婦が本当の親であることが分りませんでした。自分を誘拐した犯人を本当の母親だと思い込み、愛していたんです。それがどれだけ苦しくて、悲しいことか分りますか。あの女は、私たち家族から全てを奪いました。私たち家族の苦しみは、恵理菜ちゃんが戻って来ても、ずっと続いているんです。あの女は、恵理菜ちゃんの体だけではなくて、心も奪いました」

この冥闇の構図から開かれワンカットの中に、彼女の心的障害の一切が凝縮されていた。

「私がこの子を守る。あの笑顔に慰められたような、赦されたような、そんな気持ちでした。お腹の中の赤ちゃんを殺してしまったことや、奥さんのいる人と結婚しようとしたことや、そんなことを全部、この子は赦してくれている。そう思いました」
 
これは、「赤ちゃんを一目見たら、けじめがつけられる」という思いで、秋山夫婦の留守宅に忍び込み、ベビーベッドで泣き叫んでいる赤子を見た瞬間、衝動的に子供を連れ去って行った野々宮希和子の陳述。
 
無論、希和子の「乳児連れ去り行為」は、「未成年者を略取又は誘拐したる者は三月以上五年以下の懲役に処す」という、刑法第224条の全文に相当する、「未成年者略取又は誘拐の罪」の中の「未成年者略取罪」である。

「未成年者略取罪」の刑事被告人となった、希和子の陳述は続く。

「逮捕されるまで、毎日、祈るような気持ちで生活していました。今日一日、明日一日、どうか薫と生きられますように、それだけを祈り続け、暮しました。4年間、子育てを味わせてくれた喜びを、秋山さん夫婦に感謝しています」

被告人の最終弁論である。

 「謝罪の言葉はないんですか?」と裁判長。
 「お詫びの言葉もありません」

誤読しかねない希和子の言葉を拒絶する恵津子の心には、「謝罪」という言葉がない事実に対して、過剰に反応するに余りある憎悪が氾濫していた。

 「死んでしまえ!死ね!」

それは、既に「秋山さん夫婦に感謝しています」という、挑発とも受け取られかねない発言を感情的伏線にした、恵津子の憎悪の氾濫であるが、本来は、「深い謝罪」の含みを持つ希和子の言葉が、空気の澱みが浄化されずに、淡々と吐露されたことで激発した憤怒の身体表現だった。

思うに、子供の自我を母が作るという立場にありながら、その由々しき「母性利得」を存分に受益することを奪われた恵津子にとって、まさに、娘の恵理菜が誘拐された瞬間から、かけがえのない一つの生命が欠如した、「家庭」という限定スポットの中枢に置き去りにされた深い冥闇(めいあん)の世界の内実は、彼女が希和子を「空っぽのがらんどう」と痛罵した悪意が、自らの陰画的な心象風景のうちに反転してしまう空虚感を残酷なまでに晒すものだった。

子宮内癒着(注1)によって治癒困難な不妊症となったことで、「空っぽのがらんどう」を身体化した運命を逃れられない希和子に対して、ここでは、心理状態の空虚さを含意する「がらんどう」を、己が自我の中枢に作り上げてしまった絶望感こそが、恵津子の全てだったと言っていい。
 
 
(人生論的映画評論・続/八日目の蝉('11) 成島出 <「八日目」の黎明を抉じ開けんとする者、汝の名は秋山恵理菜なり>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/05/11.html