少年と自転車(‘11)  ダルデンヌ兄弟 <「お伽噺」を仮構してまで、“愛が少年を救えるか?”という基幹テーマを問いかける一篇>

イメージ 11  殆ど奇跡的な現代の、上出来な「お伽噺」



これは「お伽噺」である。

それも上出来な「お伽噺」である。

それは、作り手のダルデンヌ監督自身が「お伽噺」であると認めていることでも分る。

更に、サンマンサ役を演じた著名な女優であるセシル・ド・フランスも、インタビューの中で答えていた。

彼らダルデンヌ兄弟心理的な説明をしたがりません。サマンサは善意に満ち、太陽のような人ですが、監督と話していてすぐに分かったのは、サマンサの善人ぶりを誇張してはいけないということでした。この物語は現代のおとぎ話であって、そこで私が演じるのは優しさと力強さを併せ持つ女性だけど、その動機はまったく分からないのです」(オフィシャルサイより)
 
ダルデンヌ監督は、それを承知で、この殆ど奇跡的な現代の「お伽噺」を作り上げたのである。

それまで一貫して、物語のラストにおいて、主人公の子供や青年少女を救い続けてきたダルデンヌ監督の柔和な視線を全く逸脱することなく、いつものように、物語の中枢とは無縁な一切のエピソードや、そこで普通に語られるだろうスクリプトを切り詰め、排除することで構築し得た、「シンプリズム」の極致も言うべき独特の映像宇宙の基幹ラインを、本作もまた繋いでいた。

しかし、本作ばかりは、些か楽観的過ぎていた。

これは監督自身も認めている。     

 少し長いが、ピエール・ダルデンヌ監督の言葉を引用したい。

初めて夏に撮影したこともあり、太陽がたくさん入り込んでいますし、あれほどの温かさを持っている登場人物(少年の面倒をみる女性サマンサ)も今回が初めてかもしれません。ラストも未来へ開かれていて、しかも楽観的です。これまでの作品でも開かれたものにはなっていますが、これほど楽観的な雰囲気が存在したことはありませんでした。けれど、今まで私たちの映画をご覧になって、最後切ない気持ちで劇場をお出でになったというのはちょっと残念ですが、今回は幾分かマシだったでしょうか(笑)?雰囲気の違いは、心境の変化ということではないと思います。ただ、語っているストーリーが違うということです。弟のリュックも言ったように、私たちは今回、愛が少年を救えるか?という物語を作りました。私たちとしては、救えるというほうに賭けをしたのです。年をとると死が近づいてくるので、楽観的になろうとするのかもしれませんね」(『少年と自転車』ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督インタビュー・映画と。)
 
このピエール・ダルデンヌ監督の言葉でも検証できるように、愛が少年を救えるか?という基幹テーマを据えた、本作の物語で描かれた上出来の「お伽噺」は、極めて苛酷な状況設定の中で、「愛着対象の喪失」を身をもって体験した少年の未来像に対する、ダルデンヌ監督の強くて熱い思いが結晶化された作品である。

「なぜサマンサがシリルに興味を持つのか、観客には分からないようにしました。心理は説明したくなかった。現在を過去で説明してはならない。『彼女はそうするべくしている』と観客に思ってもらうようにしたかったのです」(オフィシャルサイより)

これも、ピエール・ダルデンヌ監督の言葉。

要するに、物語を根柢から引っ張り切っていったサマンサの心象風景を削り取らない限り、現代の「お伽噺」が成立しないのである。

然るに、「愛」というものの「包摂力」の威力を素朴に信じやすいナイーブな日本人は、本作が、「お伽噺」の要素をふんだんに散りばめた些か感傷含みの作品であるとは見ないだろう。

本作の物語を、そのまま「リアリズム」として受容してしまう日本人と、恐らく、ここで描かれたサマンサの人物造形をそのままストレートに受容し切れない、ヨーロッパ人との映像感性の落差が存在することを認知せざるを得ないのである。

何より、このサマンサの人物造形の「包摂力」の凄みが、本作の主人公であるシリル少年の「問題児性」に真っ向から対峙し、恋人を捨ててまで、会ってまもない「問題児」の「週末里親」を、いとも簡単に引き受けるエピソードに象徴されていた。

そればかりではない。
 
充分に父性と母性を併せ持つ、「あるべき大人の『全身理念系』」を全人格的に体現する存在として、眩いまでに光を放っているというその一点において、固有の相貌性を超えたサマンサの人物造形の「造形性」が際立っているのである。

この物語が「お伽噺」という所以である。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/少年と自転車(‘11)  ダルデンヌ兄弟  <「お伽噺」を仮構してまで、“愛が少年を救えるか?”という基幹テーマを問いかける一篇>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/01/11.html