バベル('06)  アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ <「単純化」と「感覚的処理」の傾向を弥増す情報処理のアポリア>

イメージ 11  独善的把握を梃子にして振りかぶった情感的視座



ロッコで始まり、東京の超高層で閉じる物語。

ロッコに旅行に来たアメリカ人夫婦は、関係の再構築のために旅に出て、そこで難に遭う。

東京の超高層に住む父と娘は、関係の折り合いが上手に付けられないで、日々を遣り過ごしている。

その原因は、聾唖者の娘の母の猟銃自殺にあるらしいが、詳細は語られない。

ロッコアメリカ人夫婦も東京の父娘も、その関係に被膜の壁を作っていて、それが簡単に打ち破れない境界になっている。

以上のような物語設定の映画だが、「Yahoo!」の映画解説では、「それぞれの国で、異なる事件から一つの真実に導かれていく衝撃のヒューマンドラマ」という風に、如何にも本作が訴求力の高い作品のように説明されていた。
そんな本作の主題は、単に情報伝達だけでなく、「感情交叉を含むコミュニケーション」の不足によって、私たちが呼吸を繋ぐ社会の中に「内的境界」を作り出すことで、様々な不幸を生み出しているというものだろう。

相互に思い遣る精神の喪失こそ、現代人が喪失した最大の瑕疵であるが故に、自己基準で生きるエゴイズムの超克こそ、現代人が復元せねばならない最大のテーマであるという把握がそこにある。

そして、その不幸が人類史的規模にまで拡大された「現代世界」の、厄介で解決困難な悲劇を分娩しているという独善的把握を梃子にして、大上段に振りかぶった情感的視座で押し出してくるのだ。

内面描写を捨てた映像が、主題の支配力によって長尺の物語を引っ張っていくには、登場人物たちを間断なく動かし続けることで、物語の緊張感を作り出すという短絡的なアプローチが全篇を通して垣間見えるのである。

それは、情感系の濃度の深い映像と睦み合うように、これが現代社会に生きる人間たちの圧倒的な喪失感であると、くぐもり切れずに感情投入し続ける作り手の、独り善がりな、ある種喰えない使命感の如き理念系が、最後まで騒ぎまくって止まない印象だけを捨てていく何かであった。
 
物語の中で動かされる登場人物たちの内面深くに、殆ど這い入ることのない映像を支配する主題の大きさが、一切を処理してくれるという短絡性である。

それが何より、私には気になるところだった。

これほどに大きな問題を扱うには、登場人物たちを動かし続け、号泣させれば、何か深淵で、深刻な人類史的なテーマを掬い取ることができるなどという、過剰な情感が其処彼処(そこかしこ)で捨てられるのである。

以下、本稿では、かくも喰えない映像に関わる本質的な部分のみに着目し、言及していきたい。



2  「単純化」と「感覚的処理」の傾向を弥増す情報処理のアポリア



そもそも、私たち人間は「選択的注意」(数多の情報群の中から、一定の情報を特定的に取り出して 認知すること)をしながら、情報を捕捉し、認知し、解釈している。

そのことは、「選択的注意」から洩れた厖大な情報群を捨ててきているか、それとも拾い切れない情報群をスルーしてしまうことを意味する。

従って、私たちが、その時代状況下で摂取し得る情報量は、常に限定的である外はない。

インターネットがこれほど普及しながらも、私たちが手に入れる情報量は拡大的に増幅しつつも、それ以外の情報量も増えていくので、この情報摂取のゲームは本質的に鼬(いたち)ごっこにならざるを得ないだろう。

しかも、自分が手に入れた情報の真実性を保証する何ものもないのだ。

且つ、手に入れた情報とは無縁に、ジャンク情報も怒涛のように入り込んでくるので、それを処理する私たちの能力が追いつけない状況にある。

これが、情報社会に呼吸を繋ぐ私たちの、最も厄介な問題であるだろう。

それらの情報に対して知的に解析し、処理する過程が困難になっていくので、私たちの情報処理は、「単純化」と「感覚的処理」の傾向を弥増(いやま)さざるを得ないのである。

そのアポリアに、怪しげな陰謀論や、「これで世界を説明できる」などという独善的な解釈を押し付けてくる、「専門家」と称する者たちによる情報が侵入してくるので、今や、情報氾濫の中で、私たちの知的能力はどこかで「感覚鈍磨」していく危うさを持つだろう。

それでも私たちには、「分らなさ」と共存する不快感を解消したい思いが常にあるので、自分の感覚的・知的レベルにあった解釈を安直に手に入れることで、己が自我を安定させるに足る物語を繋いで生きている。

これはある意味で、グローバル化社会の宿命であると言っていい。
 
確かに、世界は狭くなった。

しかしそれは、決して世界を解釈したと信じる能力が飛躍的に向上したことを意味しないのだ。

実際のところ、有効な方略が入手困難な、途方に暮れるような時代状況下で、世界で9.11のように震撼する事件が出来すると、今にも同質のテロルが、自分の身の回りでも惹起しそうな不安が増幅していく。

詰まる所、今まで私たちが知らなかった世界の不幸の現実が、インターネット等を通して最近接してしまうので、どこかの国で起こった事件や、或いは、自国の近接ゾーンで惹起した陰惨な事件が、身近なメディアで繰り返し報道されることによって、いよいよ、「世界と人類が絶望的に荒廃していく」という感覚を持ってしまうのである。

これが曲者なのだ。
 
確かに、「スモールワールド現象」(身近な関係を繋いでいけば、世界中の者に辿り着くという仮説)のように、どこかで「繋がりの輪」を持っているかも知れないが、それによって現代世界で呼吸するる私たちの心が顕著に空洞化し、類を見ないほど荒廃していると断じるのは、あまりに飛躍的な見方であると言わざるを得ないのである。

―― 以上は、「映画文化」のフィールドに数多蔓延(はびこ)る、「勘違い監督」による「勘違い映画」を、またしても見せつけられた者が、その「勘違い映画」に投入された主題に関わる表現に対して感受した、由々しき視座の一端である。
 
 
 
(人生論的映画評論/ バベル('06)  アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ <「単純化」と「感覚的処理」の傾向を弥増す情報処理のアポリア>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/01/06.html