気狂いピエロ(‘65)  ジャン=リュック・ゴダール <「永遠」という名の「究極の死」によってしか結ばれないトラジコメディの収束点>

イメージ 11  物語らしい表面的体裁をギリギリに保持した映像が開いた荒唐無稽の遁走譚



テレビ局に勤務する妻子のいるフェルディナンは、裕福な家庭での生活に嫌気が差していた。

 パーティーの場でも、饒舌に時を過ごす連中から一人浮いたようなフェルディナンは、目眩(めくるめ)く原色の光の洪水のカットの連射の中で、一人のアメリカ人と出会い、女性通訳を介在させて、話しかけていく。

 そのアメリカ人が、フランスに「悪の華」を撮りに来た映画監督であるサミュエル・フラー(1980年製作の「最前線物語」で有名)であると知ったが、特段の反応はない。

 しかし、サミュエル・フラーの映画論に興味を持ったフェルディナンは、その老紳士に映画とは何かを尋ねた。

 以下、通訳を介して語った、サミュエル・フラーの映画論。

 「“映画は戦場のようだ”」

「“愛”であり、“憎悪”、“行動”、“暴力” であり、“死” であり、つまり“エモーション(感動)”である」
 
その後、フェルディナンは、パーティーの場で、内省的な夢想の中で自らの思いを吐露する。

 「僕には見るための目と、聞くための耳と、話すための口がある。全部、バラバラだ。繋がってない。ひとつながりのはずが、幾つもあるようだ」

 アイデンティティ・クライシスに陥っているかの様態を垣間見せるフェルディナンが、パーティーの場で、周囲の女性たちにケーキを投げつける行為に走ったのは、そんな内省的な夢想を繋いでいた直後だった。

 パーティーでの暴走のその日、フェルディナンは、かつての恋人マリアンヌと偶然再会した。

彼がテレビ局を辞職して、訳ありのマリアンヌと一夜を共にした後、南仏への遁走に打って出たのは、彼の心理的文脈にお必然的な事態でもあった。

ここから、物語らしい表面的体裁をギリギリに保持した映像が、荒唐無稽な言動や振る舞いを満載した二人の遁走譚が開かれていく。
 
 
(人生論的映画評論・続/気狂いピエロ(‘65)  ジャン=リュック・ゴダール   <「永遠」という名の「究極の死」によってしか結ばれないトラジコメディの収束点>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/01/65.html