おとなのけんか(‘11) ロマン・ポランスキー <隠し込まれた「当事者熱量」が噴き上げてしまったとき>

イメージ 11  「一対三」の捩れ方を必至にした「当事者熱量」の意識の落差



子供同士の喧嘩を通して「事故」が発生し、そのことで「加害者」と「被害者」という風に仕分けられたとき、状況の中枢にいる子供たちの「当事者性」が、その子供の親たちに引き渡されるのは社会規範の王道でもある。

「事故」を惹起した子供たちの親たちが、その後始末のために「和解」の場を設けた時点で、既にその親たちには、「当事者熱量」が抑制的に隠し込まれている。

「当事者熱量」を抑制的に隠し込むことで、感情に任せた衝突を回避するという知恵が、大抵の大人には内包されているからである。

鋭角的な闘争を回避するために情動系がコントロールされている限り、「プライドライン」に関与する「当事者熱量」の突発的な表出は理性的に食い止められている。

だから、「大人の喧嘩」は簡単に起こらない。

価値観の相違を相互に認知し合って、情動系の出し入れを上手に表現するスキルを学ぶことで、「距離の感覚」を学習する心的プロセスを通過してきていること ―― それが、近代社会に呼吸を繋ぐ者の学習的達成点でもあった。

本作の二組の夫婦もまた、この学習的達成点を相応に内化していて、特段の破綻もなく、大人の知恵を媒介した「和解」に流れ込んでいくルールを踏襲していた。

しかし、「当事者熱量」を上手に隠し込んでいたはずの4人の大人の中で、限りなく、「当事者熱量」を内包しない男(アラン)が存在したために、マンションの一室という、特化されたスポットに空気の濁りが形成された。

「加害者性」を自覚しているはずのアランが、「被害者性」を意識する相手の親の元を、妻のナンシーと共に訪ねながら、男には「第三者熱量」の客観性が滲み出ていたのだ。

それを象徴するのは、アランの携帯に度々飛び込んでくる、仕事上の懸案事案に殆ど掛りっ切りになる行為を、被害者宅のスポットの中枢で執拗に表現してしまうシーンである。

大手製薬会社の顧問弁護士であるアランには、当該会社製造した薬を飲用したことが原因で、甚大な「事故」が発生し、それに対する法的対応の合理的指示を、逸早く出すことの方が由々しき問題だったのだ。

無理矢理、妻ナンシーに連れて来られたアランにとって、最初から、「加害者性」を抱懐して、被害者宅に訪問するという意識が欠落していたのである。

この訪問もまた、アランには、食うか食われるかというビジネス前線の、単に一つの、小さな「事故」でしかない行為だった。

事の発端となったのは、アランが作り出した空気の濁りが、看過できない〈状況性〉に膨張していく事態の必然的帰結だったと言える。

そんなアランの所作に、逸早く神経を昂ぶらせたのは、被害者宅の妻・ペネロペである。

ダルフール紛争への人道的救済を、常に由々しき問題意識として内化することで、リベラルな表現活動を繋いでいる彼女には、アランの振る舞いは、自分と対照的な立場にある者に対する「敵対感情」を惹起させる許容し難い何かであった。

だから、事務的な処理を簡便に済ませて帰ろうとするアラン、ナンシー夫婦に対する、最初の不満が放たれていく。

それは、「良い夫婦だな」と相互に褒め合っていた柔和な空気感の中で、これまで隠し込んでいた「当事者熱量」が、緩やかに噴き上がっていく〈状況性〉の最初の小さな炸裂だった。

思えば、被害者宅の夫・マイケルがハムスターを遺棄した事実に、動物愛護の心が強いナンシーが緩やかに反応しても、それを口外しなかったのは、当然の如く、「加害者性」を意識する彼女の中で、「当事者熱量」が抑制的に隠し込まれていたからである。

然るに、アラン本人には、その意図がないのだが、間断のない携帯での遣り取りが、「形式的謝罪」を印象づける振舞いに違和感を覚えた「正義派」のペネロペは、「当事者熱量」隠し込む抑制系の態度を緩めてしまうのだ。

元々、顧問弁護士という職業柄、係争に馴致し過ぎているアランには、子供同士の喧嘩の後始末など、「女の職掌」と括っているから、「第三者熱量」の客観的立場を越えられないし、その気持も持ち得ていないのである。

それ故、この四者関係の本質は、「当事者熱量」の意識の落差において、「一対三」の捩(ねじ)れ方を必至にしていたのである。
 

 
(人生論的映画評論・続/おとなのけんか(‘11) ロマン・ポランスキー <隠し込まれた「当事者熱量」が噴き上げてしまったとき> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/04/11.html