アーティスト(‘11) ミシェル・アザナヴィシウス <男の「プライドライン」の戦略的後退を決定づけた、女の援助行為の思いの強さ>

イメージ 11  今、まさに、防ぎようがない亀裂が入った「プライドライン」の防衛的武装の城砦



特定のフィールドで功なり名遂げた者が、そのフィールドで手に入れた肯定的自己像を放棄することが困難であるのは、その者が拠って立っていたフィールドの総体を否定することに繋がるからである。

フィールドの否定は、自己否定に繋がる。

その自己否定によって更新される心理的文脈を通して、心地良き既成の自己像を革命的に変容させていくモチーフが内側に累加されていて、それが新たな肯定的自己像を立ち上げていくプロセスを包括的に保持し、その心的行程それ自身を認知するならば、人間は、いつでも変わることができるだろう。

しかし、特定のフィールドで功なり名遂げた者が手に入れた、その肯定的自己像の自我の中枢に、それを相対化する何ものもないほど、快楽の記憶が存分に詰まっているならば、既にその自我には、そこで形成された「プライドライン」が堅固な城砦を巡らせてしまっている。

この「プライドライン」という奴が曲者なのだ。

人間は皆、どこかでそれだけは守りたいという「プライドライン」を、人には見えにくいバリアを内側に張り巡らせて、日々、呼吸を繋いでいる。

張り巡らされた「プライドライン」は、拠って立つ自我の防衛的武装の城砦と化しているので、それを戦略的に撤退させていくのは極めて難しいのだ。

まさに本作は、堅固な「プライドライン」を構築してきた男が、功なり名遂げたフィールドの自壊の危機に晒されることで、男の人生の総体が激しく揺動し、それでもなお捨てられない、形成的な肯定的自己像との深刻な葛藤を描き切った物語である。

男の名は、ジョージ・ヴァレンティン(以下、ジョージ)

「サイレントの大スター」。

これが、サイレントという特定の文化前線で、ジョージが手に入れた肯定的自己像の全てである。

その自己像には、ジョージの半生を通して紡ぎ出し、辿り着いた、「アーティスト」という、特段の価値を有する概念に収斂される矜持が集合しているから、彼にとって、それだけは絶対に手放すことができない全人格的な財産なのだ。

それを手放したら、全てを失うというところにまで膨れ上がった、「プライドライン」の防衛的武装の城砦が、今、ジョージの喉元を切っ先鋭く突き付ける、トーキーという名の鮮度の高い文化が浸蝕してくるが、男は意地でも、サイレントへの拘泥を捨てることはなかった。
 
サイレントを捨ててしまったら、肯定的自己像が自壊してしまうからである。

以下、その辺りを切り取った、映画会社・キノグラフ社の社長と決別する簡単な件(くだり)である。

「大衆は声を聞きたがっている。新鮮さを求める大衆こそ、常に正しい」と社長。
「僕のファンは声など求めないさ。君はトーキーを作れ。僕は自力で名作を撮るから」とジョージ。

これだけだった。

トーキーという鮮度の高い文化に全く振れることのないジョージには、「サイレントの大スター」という幻想に酩酊できるほどに、「アーティスト」という「プライドライン」に収斂される以外の何ものもない、合理的根拠の希薄な余裕があった。

「観客が私の声を求めてるの。演技を誇張する昔の役者に飽きたのね。“老兵は去り、後進に道を譲るべし”それが人生よね」

これは、ジョージに憧憬して、ハリウッド入りし、今や、飛ぶ鳥を落とす勢いで、トーキーの売れっ子女優になっていたペピーの言葉。

彼女には他意がなく、落魄しても、サイレントに拘泥するジョージへの尊敬の念を失っていなかった。

そのペピーの言葉を、同じレストランの傍らで聞いていたジョージは、「どうぞ、譲ったよ」と捨て台詞を残して去っていった。

「さらば、ノーマ。この愛も終わる」

これは、ジョージが倒産の危機を覚悟して製作・主演した、「愛の涙」というサイレント映画のラストシーンでの台詞。

恋人との愛の終焉を告げるこのカットは、砂地獄に呑み込まれていくジョージの心境を能弁に語っていた。

「愛の涙」を上演する、客の入らない劇場を視界に収め、悄然たる後ろ姿を残して去っていくジョージと、その劇場の一画で、嗚咽しながら映画を観るペピーがいた。
 
それは、ジョージの「プライドライン」の防衛的武装の城砦に、今、まさに防ぎようがない亀裂が入った瞬間だった。
 
 
(人生論的映画評論・続/アーティスト(11) ミシェル・アザナヴィシウス <男の「プライドライン」の戦略的後退を決定づけた、女の援助行為の思いの強さ> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/04/11_7.html