JUNO/ジュノ('07) ジェイソン・ライトマン<「非日常の9か月間」における、「胎児に対する責任」という「ジュノの学習」の本質>

イメージ 1 1  ヒロインの成長物語のうちに昇華させていく「戦略的映像」



 欲望の稜線を伸ばした結果、最悪の事態を招来しても、それを無化することなく、自分の〈生〉に繋いでいくとき、その状況下で選択し得るベターな判断を導き出し、それを身体化する。

 その身体化の過程でクロスした者たちとの関係を通して、他者と向き合い、自己を見つめていく。

 僅かスリーシーズンの間で凝縮された〈生〉の自己運動を通して成長する、一人の女子高生の物語 ―― それが、「JUNO/ジュノ」だった。

 何より本作が面白いのは、そこで提示された人間の根源的な問題を、アニメの導入で始まる軽いポップ系のテンポという衣裳に被せながら、ヒロインのほんの少しだが、しかし決定的な成長物語のうちに昇華させていく「戦略的映像」であったということだ。

 即ち、「生命の尊厳」の問題を、その能力の及ぶ範囲において内化する物語を構築し得たこと。

 それが、「戦略的映像」の内実である。

 
 具体的に書いていく。

 
情動系の推進力で、コンドームなしのセックスを愉悦した結果、ヒロインのジュノは、「プロライフ」(妊娠中絶の合法化に反対する立場)の運動をしている同級生の一言(「あんたのベビー、爪も生えてるのよ」)によって中絶を翻意し、産むことを決意した。


 この決断力の凄さがジュノの真骨頂であるが、彼女の自己運動は、その現実的で知的な判断によって開かれる物語を貫徹させていくのだ。
ジュノはまず、米国に数多存在すると言われる、「養子縁組待望者」を探し出し、その対象を特定化した上で、弁護士と両親を随伴して、「養子縁組予定者」の若い夫婦に会いに行く。

 話はトントン進み、その事務的な進行に、さすがのジュノも驚かされる。

 以下、その時の会話。

 「幾らお支払いすれば?」とバネッサ。夫人である。
 「いりません。売り物じゃないわ。私は、赤ちゃんに愛情を注いで欲しいの。良い両親になって。私は高校生だから、育てるなんて無理」
 「産むと決めてくれて、ありがとう」とバネッサ。
 「妻は子供を望んでいた」とマーク。夫である。
 「ママになりたいの」とバネッサ。
 「なるほど」とジュノの父。
 「自分は何のために生まれたと?」とバネッサ。
 「エアコンの調整」とジュノの父。
 「私は母親になるためよ」とバネッサ。
 「マーク。あなたは父親になりたい?」とジュノ。
 「勿論。父親になって、子供にサッカーを教え・・・」

 こんな調子で、会話が円満に進行していったのである。

 この会話の中に、赤子の養育への最適環境に配慮する、16歳のジュノの思いが充分に読み取れるのだ。

 季節は秋。

 既に、体内に自分が宿した胎児への配慮が窺われるジュノは、彼女の心的過程の成長への第一歩を大きく踏み出していったのである。


 2  劇的に変容していく物語の風景
 
 
季節は冬。


 少しずつ腹ぼてになってきたジュノは、わざわざ2時間のドライブ行を要して、「養子縁組予定者」に超音波検査の写真を見せに行った。

 バネッサが未帰宅の中、マークの反応も心地良く、共に趣味が合っているせいか、ジュノとの関係は、まるで昔馴染みであったかのような良好な状態をキープする。

 帰宅して来たバネッサも大喜び。

 満足するジュノ。

 しかし物語は、「起床転結」の「転」の部分に入っていくことで劇的に変容していく。
 
既に爛漫の春となり、ジュノの胎児も順風満帆の成熟を見せていた。
 
またしても、マークとの二人だけの会話。

 まるで、恋人を彷彿させるかのような雰囲気の中で飛び出てきたマークの一言に、ジュノは凍りつく。

 以下、その時の会話。

 「別れる」

 マークは、唐突にそう言い出したのだ。

 聞いてはならない一言を耳にしたジュノは、成人男性相手に必死の説得を試みる。

 「赤ちゃんを育ててくれるという約束よ。あなたたちには、よそみたいに簡単に別れて欲しくない」

 真剣な表情の16歳の少女。

 「父親になる心の準備が・・・」

 成人男性は、そう洩らしたのだ。

 「大人でしょ!」
 「僕をどう思う?なぜ、訪ねて来るんだ」
 「私のことで喧嘩したの?」
 「いいや、愛が冷めた」
 「愛で結ばれたなら、また愛せるはずよ」
 「君は若いな・・・」
 「若くないよ。16歳だもん。何が間違いか分るって」

 マークは、大人に成り切れない米国男性の典型的人物のようだ。

 ここでバネッサが帰って来て、涙を見せるジュノ。

 「何があったの?」と妻。
 「考えたんだ。正しいことか、どうか。僕たちは準備ができてるかなと」と夫。
 「大丈夫よ。本や育児講座で学んだし」
 「学んだけれど、不安だよ。心の準備が」

 発展性のない夫婦の会話を聞いて、ジュノは突然、ドアをバタンと閉めて、そそくさと帰っていった。

 ジュノの運転するバンが、途中で止まった。

 狭いスポットで、込み上げてきたものを封印し得ない少女は、思いの丈を存分に乗せて、嗚咽し続けるのだ。

 「バネッサへ。あなたが望むなら、計画通りに。ジュノ」

 その夜、再び夫婦の家を訪ね、このメモを、玄関先に置いて帰ったのである。

 映像のクライマックスシーンである。

 映像の中で初めて見せる、ジュノの嗚咽のシーンは、まさに、このカットを狙った作り手の、「戦略的映像」の中枢の仕掛けであることが瞭然とする。
既に、物語の風景は変容しているのだ。

 ジュノの内面世界の変容が、それを端的に決定付ける何かであった。
 
 
(人生論的映画評論/JUNO/ジュノ('07) ジェイソン・ライトマン<「非日常の9か月間」における、「胎児に対する責任」という「ジュノの学習」の本質>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/05/juno07.html