闇の子供たち('08) 阪本順治 <「象徴的イメージを負った記号」の重量感に弾かれて>

イメージ 11  象徴的イメージを負った記号



ここに、6人の日本人がいる。

1人、2人目は梶川夫婦。拡張型心筋症の息子(8歳)を持ち、近々、タイで心臓移植を計画している夫妻である。①

3人目は、買春目的でタイに行き、非合法でペドフィリア小児性愛)を愉悦し、それを動画サイトに投稿する男。②

4人目は、人の眼を見て話せないために、隠し撮りを生業とするフリーカメラマンの青年、与田博明③

5人目は、「見て、見たものをありのままに書く」ということをモットーとするジャーナリスト、清水哲夫。④

6人目は、「所詮、自分探しなんだろ」と揶揄(やゆ)されながらも、タイのNGOで行方不明の少女を捜そうと試みる、ボランティア志望の若い女性、音羽恵子。⑤

そこに、「善悪」、「正義・不正義」の観念的判断を媒介させないで言えば、本作の中に、この6人の日本人の人格の内にそれぞれ象徴される固有の人生テーマ、生活様式、欲望ライン等が付与されていて、時には対立的に、しばしば重厚にクロスし合って、物語の骨格を成している。

それぞれを、①子を持つ親の愛、②小児性愛、③視線恐怖・臆病心、④職業的な平均スタンス、⑤正義という名のの感情ラインで突っ走る直接行動主義、という風に仮託しておこう。

そしてこの6人の中で、②の日本人を除いて、他の5人と何某かの接点を持ち、且つ、この6人が身体表現する全ての象徴性を具有している日本人がいる。
言うまでもなく、本作の主人公である南部浩行である。

彼はバンコク支局駐在の新聞記者であるが、本社からの依頼でタイにおける人身売買の取材の過程で、生きたまま臓器移植される子供たちが存在するという震撼すべき事実を知り、まさに命懸けで、「闇の子供たち」の地下世界の深奥に迫っていく役割を演じている。

ここでは詳細なストーリーはフォローしないが、ただ本作が、そんな正義感溢れるジャーナリストのスーパーマン性を描く映画ではないことだけは確認しておこう。

その南部浩行が「ぺドファイル小児性愛者)②」の過去を持ち、それ故、子供からの「視線恐怖③」にしばしば怯(おび)え(それを最も象徴するシーンが、花売りの少女の視線に過剰反応する序盤の描写)、それでも今はその病理の克服過程にあるのか、酒浸りの生活の中で最低限の「職業的な平均スタンス④」を捨てていないギリギリの日々を送っていた。

無論、映像は南部のその忌まわしき過去の一点のみをサスペンスタッチで描いていくから、観る者は彼のその振舞いの意味を、「闇の子供たち」の真実に肉薄しようと努める職業的な関心領域の範疇から生まれた、単に子供好きの男の自然な反応という風に了解するであろう。だから、このような描写が断片的に挿入されても、あっさりと看過してしまうはずである。

男のその最も由々しき病理を、観る者はラストシーン近くの描写によって知ることになり、そこに作り手が相当の覚悟を括ったに違いない、ラストシーンの多分に挑発的なメッセージ、即ち、「この映画は日本人自身の問題なんだ」という含みを持つ反転の描写が繋がることで、本作と誠実に付き合ってきた過半の観客は袈裟懸(けさが)けに遭うことになるだろう。

私たちは、このような物語設定の是非と評価を巡って、それぞれの感懐を持ち、或る者は許容できない気分の内に映像の嘘の世界に置き去りにされるかも知れない。当然、私も許容しないが、その辺りについては後述する。

稿を進める。
 
件の人物、南部浩行は、取材対象者に対する新聞記者としてのノウハウを心得ていたこともあって、攻撃性を削り取ったその穏健な態度が認知されたのか、唯一、梶川氏から二階で床に臥(ふ)す息子の姿を見に行く許可を得て、実行していた。

これは映像に映し出されなかったが、音羽恵子という突貫娘によって壊された取材の直接現場で一人残った南部に対して、梶川氏が温和に対応したのは、南部もまた妻子を持つ身であることを知った氏の、心の琴線に小さく触れたからであるだろう。①

そんな男が、独りよがりの感情的行動に走るだけの恵子を「バカ女」呼ばわりしながらも、「正義の感情ラインで突っ走る直接行動主義」とは切れてはいたが、それでもタイのマフィアに暴力を振るわれ、その命令一下で動くチットという、「闇の子供」の過去を持つ「運び屋」に、「ここはお前らにとっちゃ外国だ。外国には外国のルールがある。おかげで、お前らは買春ツアーやりたい放題だ。見てて反吐が出る。気色悪い日本人どもめ。お前ら、心の中で何度も殺してやったよ。嗅ぎ回るのをやめりゃ、殺すのは心の中だけにしてやる」などと恫喝されたとき、「分った。許してくれ」とタイ式土下座をした後、「見て、見たものをありのままに書く」ことを断念しなかったのである。

恵子の直接主義に近い辺りで、彼もまた匍匐(ほふく)していたのだ。⑤

しかし、正義の感情ラインを僅かばかり延長しただけの、男の行動主義はそこまでだった。

ラストシーンに流れるマフィアと警察との乱射の現場に立ち会ったとき、彼はチットの恫喝の際に腰を抜かした与田のような、信じ難き臆病な態度を露呈させてしまったのである。彼は血生臭い現場から恵子を脱出させようとするが、「あたしは自分に言い訳をしたくない」と凛として返される始末だった。

おまけに、恵子の放った「手を離して」という一言によって、南部はペドフィリアの対象だった少年から、同じことを言われた過去の自分を想起して慟哭するに至るのだ。彼の臆病心のルーツには、癒されない過去に捕捉されていた心理文脈が横臥(おうが)していたのである。②、③
更に、「臆病だから、何ですか、ファインダー越しに人と眼が合うと、緊張してブレるんですよ。だから、気づかれないように撮るのがいいんですよ」と言っていた当の本人は、南部からの強い要請を渋々受けて、「闇の心臓移植」のレシピエントとなる息子を連れた梶川夫人が、タイの空港に到着した現場を盗撮した後、その行動によって心情の変化があったのか、南部を訪ねて来て、「俺も見て、見たものを撮りたくなりました」と言い放ったのである。

結局、南部浩行の「人格」の内に仮託されていた幾つかの象徴的イメージを様々に身体化していた、時代の只中に呼吸する当の本人たち、とりわけ若い世代のリアルな人格性には、まさにその時代にほんの少し風穴を空ける程度だが、しかしそれが継続力を持つことによって、相応の破壊力を手に入れるかも知れない変容を予感させることで、時代を繋いでいくに至る固有性を刻んでいったのだが、その流れに乗り入れられない南部だけが過去に捕まって、一人の少年にその歩行を遮断され、路上で置き去りにされてしまうのだ。

勿論、このような把握は、筆者自身の主観の濃度の深い勝手な読解だが、それを敢えて敷衍(ふえん)させていくと、作り手が一身に背負ったかのような覚悟の中でイメージ化され、シンボリックに仮託された「南部浩行」という人格像とは、一種の記号以外の何ものでもないということになる。

「南部浩行」は、「象徴的イメージを負った記号」であった。

だから、その役割を演じ切ったら、死出の旅路に出なければならなかったのか。結局、男はその「象徴的イメージを負った記号」の重量感に弾かれて、映像の仮構世界を漂流しているだけだったように見えるのである。

具体的に言えば、彼が与田に放った、「いいんだ。撮れたんだったら、それでいいんだ。俺もあの子の顔をしっかり見たよ」という言葉に集約されるように、「見て、見たものをありのままに書く」だけの新聞記者の仕事を終えたら、もう彼には、「手を離して」とタイの少年に言われながらも、その少年の写真を捨てられない、あのペドフィリアとしての過去の深い闇の記憶しか残らなかったのである。
少年少女たちから、特定的に見つめられることへの視線恐怖からなお解放されず、それを分娩した禁断の人身売買に、自らがアクセスしてしまった闇の記憶が決定的な局面で蘇生したとき、男はもう時間を繋いでいく熱量を自給できなくなってしまったのだ。

思えば、直接行動主義の「バカ女」の恵子に、「俺、あんたを裏切っている」と一言添えた南部の心の闇の記憶は、自らが主体的に引き受けた「闇の子供たち」の取材の只中で、より鮮烈に蘇生させる方向を露わにするばかりであった。

当然である。

それでも、彼がその凄惨な仕事を引き受けたのは、「暴露療法」(注1)的な恐怖突入を図り、一気呵成(いっきかせい)のブレークスルーを身体化しようとしたものなのか。そこに贖罪の観念への思いが垣間見られるが、なおその脈絡が判然としないのである。

しかし彼の自死を単に人間学的な把握によって、恐怖突入によるブレークスルーの挫折を意味すると捉えたにしても、恐らく、作り手による、テーマを自己に反転させていくという類の、ある種の「観念の旅路」の逢着点であったという見方を否定するものには決してならないであろう。
ともあれ、このような難しい役どころを演じることが要請された俳優も大変だが、私の独断的見解を言ってしまえば、案の定、この役を演じた著名な俳優は見事にしくじっていた。
俳優の選択のミスであるとも言えるだろうが、演出の失敗でなかったら、多分に既成俳優の能力の範疇を越える仕事を求めた、製作スタッフの援護を含む作り手の乱暴な映像の、リアリティを剝落させた着地点のイメージから遡及させた、乱暴極まる物語展開の安直な構成の、殆ど予約された失敗作であるように思われるのである。

なぜなら、件の主演俳優の「心の闇」の微妙で、繊細な表現力の決定的な不足が如実に感受されてしまったからだ。言わずもがな、男の「内なる闇」の部分をサスペンス仕立てにしてしまったから、そこだけは削れないと思える重要な内面描写を、本作の作り手はいとも簡単に捨ててしまったのである。そこに本作の決定的な瑕疵(かし)があると、私は考えている。

不可避と思える重要な表現を禁じられた俳優に、一体、どのような演技表現が可能なのか。

答えるまでもないことだ。

だからこそと言うべきか、予(あらかじ)め、それなしには困難な演技表現を制約されたしまった俳優が、それでなくとも拙い技巧をカバーするに足る限定化された内面描写を、同時に限定化された虚構の世界の、その限定的な時間の中で表現し得ることの厄介さは、単にそこで表現されるものの稚拙さだけを置き去りにするだけだった。

詰まる所、「象徴的イメージを負った記号」を演じ切ることの艱難(かんなん)さだけが、私にはひしと伝わってきてしまったのである。

 
 
(人生論的映画評論/闇の子供たち('08) 阪本順治 <「象徴的イメージを負った記号」の重量感に弾かれて>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/06/08.html