先生を流産させる会(‘11)  内藤瑛亮 <ファンタジーに流れゆく剥ぎ取られたリアリズム>

イメージ 11  ファンタジーに流れゆく剥ぎ取られたリアリズム



当然、こういう映画があっていい。

だが、現代の日本が抱える教育に関わる、重大な「問題提起作」という印象から乖離していて、私には大いに不満が残った。

このような映画を世に問うに足る覚悟が、作品から感じられなかったからである。

典型例を挙げれば、生徒が仕掛けた椅子で転倒したサワコ先生が、ミズキをリーダーとする5人の女子生徒の頬を叩くシーン。

明らかに、頬を叩く仕草だけで終始するシーンを見せつけられて、もうダメになった。

テレビドラマでなく、金を取って見せるシリアスドラマで、これをやったらシラケてしまうのである。

こんな演出でお茶を濁す作り手には、「問題提起作」を映像提示する覚悟も能力もないと言わざるを得ないのだ。
 
また、ステレオタイプで、「決め台詞」を怒濤のように繰り出す、サワコ先生の啖呵の凄みは、却って〈状況〉のリアリティを壊すだけだった。

そして、「女子中学生」限定の物語の設定の問題。

「犯人役は先生が『妊娠してる』こと、それ自体に嫌悪感を感じさせるキャラクターにしないと訴えたいテーマに迫れない。男子生徒の場合、『嫌いな先生がいる→ その先生が妊娠してた→流産させよう』って発想の順番になり、そうすると『先生を流産させる会』という言葉から受ける嫌な気持ちから遠ざかってしまう。そこでキャラクターを女の子にすることで、『妊娠』が自分の身体と直接関わる出来事になる」(『先生を流産させる会』 内藤瑛亮(監督)インタビュー/映画芸術・2012年5月23日)
 
この映画のモデルとなった事件のように、本作が、最初から「男子中学生」が抱える問題を排除して作った意図は、以上の作り手自身の言葉によって理解できなくはない。

しかし、社会性を持ったシリアスドラマとしてのリアリティを重視するなら、普通の公立中学で惹起している生活風景を、ありのままに映像提示した方が観る者に説得力を持つ内容になったはずだ。

妊娠=性を不浄と考える、「女子中学生」の観念系の鋭角的な尖りという問題のうちにテーマを閉じ込めることで、物語を膨らませることを明らかに回避したいのだろう。

それもいい。

しかし、物語を膨らませることを拒絶した理由が、観る者に製作費の問題が関与していると想像させてしまうほど、本作のストーリーラインには訴求力を感じられないのだ。

単なるエピソード繋ぎで、しかも肝心なところは、ステレオタイプな台詞のみに依拠する作品になってしまった。
 
何より、看過し難かったのは、妊娠=性を不浄と考える「女子中学生」たち(正確には、ミズキ)の問題のうちに限定させながら、物語の基本骨格が、ミズキの人物造形に特化された、浮遊感漂う「確信犯的女子中学生」の「悪意」と、サワコ先生に象徴される「スーパー教師」の、「使命感含みの正義」との「命を賭けた戦争」という、あまりに分り易い類型的なドラマの中に、最後は、後者が前者の心の空洞の隙間に潜入することで、「いなかったことになんて、できないの」という、本作の基幹メッセージを訴えるカットの内に収斂されていく、「映画の嘘」の短絡性。

そして本作は、この分り易い類型的な対立構造の中に、実際は、複層的に様々な問題が絡まっていることで解決の方途を見つけにくい、由々しき「中学生状況」という厄介なアポリアが厳として存在しているにも拘らず、単に「モンスターペアレント」に悩まされる「学校サイドの脆弱性」や、「体罰の是非」などの問題をエピソード挿入しただけで、それらの問題が内包する「中学生状況」には沈黙し、且つ、それを捨てていくことで、件の「モンスターペアレント」の暴力から、浮遊感漂う「確信犯的女子中学生」を、文字通り、体を張って守り切る「スーパー教師」という、学校版アクションムービーに変換させてしまうのだ。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ 先生を流産させる会(‘11)  内藤瑛亮 <ファンタジーに流れゆく剥ぎ取られたリアリズム>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/06/11_23.html