ハート・ロッカー('08) キャスリン・ビグロー <「戦場のリアリズム」の映像的提示のみに収斂される物語への偏頗な拘泥>

イメージ 1 1  「ヒューマンドラマ」としての不全性を削り取った「戦争映画」のリアルな様態



 テロの脅威に怯えながらも、その「非日常」の日常下に日々の呼吸を繋ぎ、なお本来の秩序が保証されない混沌のバグダッドの町の一角。

 そこに、男たちがいる。

 米陸軍の爆発物処理班の男たちだ。

 この日もまた、いつものように、彼らがカメラ付きの軍用ロボットの遠隔操作によって発見したIED(即製爆発装置)を処理するため、再び、軍用ロボットを向かわせた。

 
ところが、舗装されていないガラクタ道のため、軍用ロボットの車輪が外れ、故障してしまうに至った。
ここで、およそ45kgの重量がある防爆スーツに身を包んだ爆発物処理班のリーダーが、手動でIEDの処理に向かい、何とか無事にセットした。

 件のリーダーの任務を援護する処理班の二人は安堵し、束の間ジョークを交わし合うが、遠方に携帯を持ったイラク人と思しき男を、処理班の若い技術兵が視認することで緊張が走る。

 恐らく、それもまた、殆どルーティン化された、彼らの「非日常」の日常の様態なのだろう。


 「携帯を捨てろ!」と叫ぶ技術兵。
 「そいつを撃て!早く撃て!」と処理班の軍曹。

 逃げる男を追う技術兵。

 「撃てない!」と技術兵。

 狙いが定められないのか、射殺する行為に躊躇しているのか定かではない。

 その時間の一瞬の空隙に爆発が起こった。
大地が盛り上がるほどの砂塵が舞った。

 別の携帯のスィッチを押した白人による犯行だった。

 ドキュメンタリー映画のような手持ちカメラは、一瞬、その相貌を写しただけだった。

 無論、逃げる男との絡みは不分明である。

 分明であるのは、防爆スーツに身を包んだ爆発物処理班のリーダーが吹き飛ばされ、絶命したという現実だけ。

 以上、この10分間に及ぶ冒頭のシークエンスに、本作のエッセンスが詰まっていると言っていい。

 即ち、この映画で確信的に捨てられているものが、そこに凝縮されているのだ。

 この映画で確信的に捨てられているもの ―― それは、テーマ性を内包した「戦争映画」に付きものの「政治」であり、「友情」「愛」などという「感動譚」である。

 敢えて言うなら、「ヒューマンドラマ」としての不全性を覚悟してまで、そこで削り取った「戦争映画」のリアルな様態が執拗に描き出されるのである。

 だから、「戦争映画」に付きものの「政治」=「暑苦しい反戦の主張」や、「友情」「愛」などという「感動譚」を本作に求める者は、爆発物処理班のリーダーの「戦死」の代りに派遣されて来た「命知らずの男」による、爆発物処理の描写を繰り返し見せつけられることで、すっかり置き去りにされた気分になるに違いない。

 支払った「木戸銭」に見合わない映画を、130分間も見せつけられたストレスが昂じて、本作に「糞映画」紛いの酷評を加える心理は理解できなくもないが、しかし、それは大袈裟なキャッチコピーに乗せられた応分の報いとも言えるだろう。

 独断的主観に基づき、敢えて書く。

 この映画が、イラク戦争に辟易するアメリカ人の厭戦気分にマッチした作品に仕上がっていたり、或いはその真逆で、昂揚感を高める効果に結び付くものであったり、等々の見方を仮定しても、必ずしも、「アメリカ映画の祭典」の結晶としての「アカデミー作品賞」に相応しい完成度の高い秀作であるか否かについては、相当程度、疑問の余地があるかも知れないが、それにも拘らず、本作がイラク戦争肯定のプロパガンダ・ムービーと見るのは、明らかに誤読であるか、それとも「論理的過誤」を心理的ベースにした、濃密なマインドセットに起因する曲解である。
それ故、一見、訳知り顔の、ナイーブなまでに青臭い、センチメンタルな反米主義に拠って立つ数多の批判の放射は、完全に的外れであると言わざるを得ないだろう。

 以下、私なりの簡潔な批評を加えていきたい。



 2  アディクション性向が巣食っている男の、内側深くで特化された「戦場のリアリズム」



 「政治」の空白や、「ヒューマンドラマ」としての不全性によって炙り出されるもの ―― それは、「戦争は麻薬である」という冒頭のキャプションを体現したような男の、そこだけは抜きん出たプロフェッショナルの仕事の内実だった。

 このキャプションの前には、「戦闘での高揚感は、時に激しい中毒となる」という、ピューリッツアー賞受賞の「ニューヨーク・タイムズ」紙記者である、クリス・ヘッジスの明瞭な反戦的メッセージが張り付いていたが、そのキャプションの挿入によってインスパイアーされる必要も特段にないし、正直言って、こうした類のキャプション自体が不要である。

 仮に、キャプションに込められた物言いが相応のメッセージ性を包含していたとしても、そこに屋上屋を架す説明を張り付ける、あまりに分りやす過ぎる映画は過剰なサービス精神ですらなく、観る者の想像力の広がりを遮断する行為と化すのだ。
 
 
 
(人生論的映画評論/ハート・ロッカー('08) キャスリン・ビグロー <「戦場のリアリズム」の映像的提示のみに収斂される物語への偏頗な拘泥>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/10/08.html