籠の中の乙女(‘09) ヨルゴス・ランティモス <「反教育」という「無能化戦略」の安定的な自己完結の困難さ>

イメージ 11  塑性的に歪んだ権力関係の中で惹起する風景の変容①



“海” は「革張りのアームチェア」、“高速道路”は「とても強い風」、“遠足”は「固い建築資材」、“カービン銃”は「きれいな白い鳥」。

これらの言葉が、カセットテープを介し、「今日、覚えるのは、次の単語です」というボイスによって、「学習」の日常性から開かれる物語の異様さは、そのボイスを形式的に聴く3兄姉妹の何気ない会話に繋がれることで、冒頭から挑発的に観る者をフリーズさせるだろう。

「ねえ。皆で我慢するゲームをしない?こういうのよ。蛇口から熱湯を出して、その中に指を入れる。最後までどけなかった人の勝ち。どう?」

次女の提案である。

「面白そう」と長女。
「賛成」と長男。
「蛇口は全部使う?それとも一つ?」と長女。
「一つでいいと思う」と次女。
「時間は?時計で測る?それともストップウォッチ?」と長女。
「必要ない話。一緒に指を入れて、最後に残った人の勝ちだから」
「じゃ、蛇口は3つ全部使うの?」と長男。
 「一つでいいと思う」と次女。
「別々にやると、誰かズルするかも」と長女。
 「この浴槽でいいわ。大きいし」と次女。
「ゲームの名前は?」と長女。

 予めインプットされていない情報に接した次女は、反応に窮し、「さあ」と答えるのみ。

 彼らには、創意工夫を凝らして、「遊び」を「ゲーム」に変えていく能力が培われていないのである。
 
郊外の大邸宅の、広大な敷地を占有するこの特定スポットは、「プレーパーク」(子供たちが創意工夫を凝らして、「遊び」を作り出す場)とは全く無縁な空間だった。

なぜなら、その郊外の邸宅を私有する絶対的支配者による、誤った情報のみしか与えられない上意下達的な環境下で育った三兄妹にとって、外部世界との完全途絶を目論む件の男との、塑性的に歪んだ権力関係の中でしか〈生〉を繋げなかったからである。

ここで言う絶対的支配者とは、彼らの父親であるが、最初から「長男」、「長女」、「次女」という役割呼称しか与えられていない三兄妹と異なって、当然の如く、外部世界に仕事に行く父親には固有名詞が与えられているものの、初発のインパクトで観る者を驚かす映像は、それを最後まで提示することはしなかった。

即ち、この物語は、役割呼称が延長され続けるだけで、固有名詞を剥ぎ取られた者と、固有名詞を持っていても、それを提示する必要のない者との権力関係を通して、その爛れ切った実態を描く映画であることが判然とするだろう。

そんな塑性的に歪んだ権力関係の中で、惹起する風景の変容。

人間が人間を支配し続けるのは、口で言うほど容易ではないのだ。

固有名詞を剥ぎ取られた三兄妹が青春期に踏み入れることによって、微かに生き残されていた外部世界への好奇心が、彼らの内側で生まれたとき、物語の風景が俄(にわ)かに変容していく。

青春期に入った、「体が大きいだけの子供たち」の変化に敏感に気付いた父親(以下、「男」または、「父」と呼称)が、長男の下半身の処理として、会社の女性警備員を紹介するに至った。

女性警備員の名はクリスティーナ。

外部世界で普通に呼吸を繋ぐクリスティーナの出現によって、この特定スポットに閉じ込められている、「体が大きいだけの子供たち」の内側に変化が出来する。

 徐々にだが、しかし確実に、閉ざされた内部世界で保持されていた、家族限定のルールに縛られた「不均衡の均衡感覚」が崩されていくのである
 
「体が大きいだけの子供たち」の他愛ない遊戯の中で出来した、模型飛行機を巡る兄妹喧嘩のシーン。

兄の手から荒々しく奪った長女が、それを敷地の外に投げたばかりか、兄の腕を包丁で切って出血させ、母に折檻される一連の暴走行為には、外部世界の臭気をダイレクトに運んできたクリスティーナの影響力を見ることができる。

このシークエンスで印象深いのは、長男が父に頼んで、敷地の外に行って模型飛行機を取ってもらう珍奇な構図である

この珍奇な構図の異様さは、ほんの一歩の距離を、わざわざ車に乗って、模型飛行機を取りに行く父の行為のうちに集中的に表現されていた。

それは、「外部世界との交流禁止」という、家族限定の絶対規範のメッセージであるからだ。

そして、長男の猫殺し。

長男の内的風景に、あっという間に感染する、「体が大きいだけの子供たち」の変化のシグナル。

それが身体表現されていくのだ。

そんな変化を感受した父もまた、直截な対応を余儀なくされた。
 
体全身にべったりと血糊をつけ、身体表現する男。

外部世界の恐ろしさを伝えるためである。

「体が大きいだけの子供たち」が惹起した小さな反乱は、程なく、長女の行為のうちに集中的に振れていく。

「独りごとを言うママ」

これは、両親の寝室の棚に隠し込んでいた電話で、父と話す母の部屋の外から、盗み聞きした長女の観念の現実の様態である。

外部との関係を一切断たれて洗脳的に養育された、一つの「人体実験」の範型を視認させられるような絵柄だった。

そんな長女が、長男の下半身の処理という役割を越えて動くクリスティーナに近接し、カチューシャを無心する。

「ここを舐めたら、カチューシャあげる。気持ち悪い?」
「いいえ」

クリスティーナのクリトリスを舐める長女。
 
幸いと言うべきか、この兄姉妹には、「性」的な行為が不潔であるという特段の教育を受けてこないから、「性」的な行為に対するハードルが極端に低く、抑えがたい性的感情なしに、「性」的な行為に侵入できてしまうのだ。

 クリスティーナとの非言語的身体接触の延長上に、外部世界への侵入の心理的ハードルが下がったことで、外部世界との間接的交叉を具現するのは必然的だった。

クリスティナからビデオを手に入れた長女は、その蠱惑(こわく)的なツールを媒介に、外部世界の風景の片鱗を視界に収めるに至る。

それは狡猾だが、跳躍的な自己運動の意味を内包する行為でもあった。

然るに、ルール違反のアクションに馴致していない、「体が大きいだけの子供たち」の稚拙な振舞いが露見するのは早かった。

明らかに、家族限定の絶対規範を破った長女に対して、男による容赦のない折檻が待っていた。

ガムテープでぐるぐる巻きにされたビデオで、繰り返し頭部を殴打される長女。

殴打されたのは長女ばかりではない。
 
ビデオを与えたクリスティーナもまた、「暴力男」の本領を発揮した家族の父から、ビデオデッキで殴られたばかりか、即刻、馘首されるに至るのだ。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ 籠の中の乙女(‘09) ヨルゴス・ランティモス  <「反教育」という「無能化戦略」の安定的な自己完結の困難さ> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/08/09.html