「生き方」とは自己を規定することである

イメージ 1人はなぜ、不安に駆られるのか。

 失いたくないものを持ち、それを失ったらどうしようというイメージを作りだすことと、本当にそれを失ってしまうのではないかという思いが、一つの自我の内に共存してしまうからである。

 この、失いたくないものを失うのではないかという恐れこそ、不安感情の実相である。

 それらは生命であり、生活であり、安全であり、或いは、財産とか友情、愛情、または社会的地位や信頼感、更に、過去の栄光や秘密のプライバシーなど、人が失うことを恐れるものは限りなく存在するだろう。

 そして、それを失う確率が高いほど、失うことを恐れる感情が私たちの自我を縛り、その自在性を奪っていくのである。

それが人間のあるがままの姿であり、そこに、どのような威勢のいい啖呵を捨てたにしても、それは大抵、人間の自己防衛戦略による虚勢的なポーズでしかないであろう。

 それもまた、とても重要な表現様態なのだが、当然、そこには限界がある。

その限界点を突破されたとき、人間は、その本来的な脆弱さを晒す外にないのである。

それは、私たちの人格表現の普通のカテゴリーの内に収斂されるものなのだ。
 
そのような様々な不安と、私たちはしばしば正面から対峙し、時には、それとの闘いが、外見的には静かだが、しかし、その内側では苛烈なまでに揺動する自我が、仮にそこが一過的であっても、少しでも安寧を得られるような軟着点のイメージを必死に弄(まさぐ)っていく。

 実は、不安との闘いはイメージとの闘いなのだ。

自我を覆う最悪のイメージとの闘いなのである。

 私たちの内側では、常にイメージだけが勝手に動き回っている。

しかし、事態は全く変わっていない。

事態に向うイメージの差異によって、不安の測定値が揺れ動 くのだ。

イメージを変えるのは、事態から受け取る選択的情報の重量感の落差にある。

不安であればあるほど、情報の蓋然性が低下するから、情報もまた、イメージの束の中に収斂されてしまうのである。

結局、イメージが無秩序に自己増殖してしまうから、不安の連鎖が切れにくくなるのだ。

イメージの自己増殖が果たす不安の連鎖によって、いつしか人は、予想だにしない最悪のイメージの世界に持っていかれてしまうのである。

最悪のイメージに下降していった自我が、そこで開き直る芸当を見せるのは極めて困難である。
 
そこに澱んで、自らを食(は)んでしまう恐怖から、一体、誰が生還できると言うのだろうか。

 最悪のイメージの厄介なる定着が、常に自我を苛み、蝕んでいく。

 震える自我は孤立し、急速に体温が奪われる。

早晩、自我は硬直し、闇に囲繞される。

イメージの負の氾濫を自我は抑えられず、指針を与えられぬまま冥闇(めいあん)の森を彷徨するのである。

 不安の暴走は時間を潰し、繋がりを消していく。

 そのとき既に、事態のリアリティは模糊と化し、イメージの負の氾濫が極点にまで達したとき、私たちを苦界(くがい)の果てに引き摺り込んでいく。

 苦界に身を沈める風景の凄惨さから、貴方は脱出できるだろうか。

失いたくないものに縋ることと、それを守ることに絶望する心が同居してしまうとき、そこにはもう、最悪のイメージに呑まれた私たちの自我が虚空に晒されているのだ。
 
(新・心の風景  「生き方」とは自己を規定することである)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2013/11/blog-post.html