鉄道員(ぽっぽや/'99) 降幡康男 <聖者の大行進>

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鉄道員」は、感動を意識させた原作と、同じく感動を意識させた映像が結合し、私には些か厭味な映画になった。

映画はとても良くできている。

完成度もそれなりに高いので、日本アカデミー賞を総舐めにした理由も納得できなくはない。

しかし、それらが却って私には馴染めないのだ。

「さあ、全て要所を抑えた。非の打ち所のない良質な映画を苦労して作ったのだから、皆、この映画を観に来て、思う存分泣いて欲しい。エログロナンセンス溢れたこの国の愚劣な文化に浸かっている人々に、本物の感動を届けたい。さあ、本物の日本映画を皆で共有しよう」

勿論、誰もこんな思い上がったスピーチをする者がいないだろうが、この映画を観終えた私の耳には、そんなメタメッセージが聞こえてしまうのである。

別にこの秀作にケチを付けたくないのだが、私には近年、この国の文化のある種の過剰さがとても疎ましく感じられるので、どうしてもそのラインでこの「鉄道員」を観てしまうことになる。

この国のある種の過剰さ。

それは「感動」に対する需要の過剰、その需要に過剰に応えてしまう「感動」の供給の過剰、即ち、感動の押し付けの過剰という目立った現象である。


例を挙げれば切りがないが、メディア各局の24時間チャリティ番組での感動譚の大洪水。

「母はかくも偉かった」、「父はかくも強かった」、「ここに今、宿怨を晴らして、親子が一つになる」、「恩師への愛を綴る」、金八先生の極端な理想形、そして極めつけは、かつて某放送局で人気の高かった「知ってるつもり」という番組。

スタジオには、要所で涙腺の弱いゲストを呼んで、感動放送の後に必ずカメラを向けて、泣き好きタレントのクローズアップ。


先日もテレビを観ていたら、「あなたの欠点は何ですか」と問われた無骨イメージの男性が、間髪入れず、「すぐ泣くことです」と答えていた。

質問者が、「えっ、どういうときに?」と聞いてきたら、この男性は「感動する映画や、感動する話を聞くと、すぐ目頭が潤んでしまうのです」と、長所を語る者のように答えたから、その無邪気さに失笑を禁じ得なかった。
この男性は、この国では、感動の涙が充分に人格セールスになり得ることを弁(わきま)えているのである。

「母の優しさ」とか「強き父」、更に「偉大なる恩師」、「不良の改心」、「親子の一体」、「地域の結束力」、「無私なる人々」、「殉教(職)者」等々といった美しいとされるものが、豊かさを増幅していく社会に伴って姿を消していくほど、失われた共同体を志向する思いが、このような価値の人工的な復権を必要以上に求めてしまうのである。

この必要以上の心の振れ方が、人々の感動の需要を、目立って集合させてしまうという流れを作り出してしまうのだ。

そしてもう一つは、印象的なまでに目立ってきた情緒過多社会の到来がある。

現代家族は、既に最も小さな情緒共同体と化していて、この小宇宙で育まれる次世代の自我も、その生誕のときから、充分に情緒のシャワーを被浴してきている。
ホットな視線と期待の中で成長する自我は、知性や理性で訴えてくる情報よりも、情緒をたっぷり含んだ情報にこそ馴染んでしまっているのだ。

人前ですぐ泣いたり、僅かなことにも過敏に反応したりする若者たちの心情風景の中に、情緒の不足に耐えられない自我の脆弱さが貌を覗かせている。

感動に殺到する社会の根柢に、こんな自我の脆弱さが絡んでいるようにも思えるのだ。

反応過多な社会が、其処彼処(そこかしこ)でより大きな感動を欲しがっているのである。
 
 
 
(人生論的映画評論/鉄道員(ぽっぽや/'99) 降幡康男 <聖者の大行進> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/12/99_11.html