ノーカントリー('07) コーエン兄弟  <「世界の現在性」の爛れ方を集約する記号として>

イメージ 11  恐怖ルールを持つ男



個人が帰属する当該社会に遍く支持されている規範(ルール)、それを「道徳」と呼ぶ。

この道徳的質の高さを「善」と定義しても間違いないだろう。

しかしそれらは、どこまでも「やって欲しいこと」と「やって欲しくないこと」を内的強制力、内面的原理として成立し得る概念である。

そこでの規範を大きく逸脱する者は社会から心理的又は、しばしば物理的に排除されることによって、当該社会、或いは、共同体を維持する秩序からの身体的逸脱の行程を余儀なくされるかも知れない。

それでも逸脱した者の行動の自由は、本人がなお選択的に保障される範疇にあるだろう。

その逸脱者が帰属すると信じた生活圏から石を持って追われたにしても、別の生活圏に移動すれば、また新たな自己基準に則った人生を拓いていけば良いだけのことである。

ところが、人々の行動規範を外的強制力によって縛る「法律の体系」というものが、この世に存在する。

それが内的強制力、或いは、内面的原理としての「道徳」や「善」という概念と切れているのは、人々の自由の範疇を規定し、縛ることによって、それを逸脱した者に対して、一定のペナルティを課す可能性に関わる権力性を保有しているからである。

言わずもがなのことだが、社会秩序を維持するために強制される規範に基づくこの権力性の下で、人々の安定的な秩序が維持されるのである。

その発現様態において、しばしば暴力性を内包するその権力体系によって守られている人々を「国民」と呼び、その「国民」を守っている権力体系を「国家」と呼ぶ。

「主権」、「領土」、「国民」によって成る「国家」は、「国民」に守るべき行動規範を強制し、当然の如く、特別のケースを除いて、何人もその例外を許容することはないのだ。

それ故にこそと言うべきか、「法律の体系」という外的強制力によって、「国家」が「国民」に強いる行動規範を特定的に切り取って、特定的に切り捨る行為を身体化する者が存在するとしたら、その者を我々は「犯罪者」と呼ぶ以外にないだろう。

そしてその「犯罪者」の内側に、その特定的な行動規範が凛として存在し、そこに一片の躊躇や逡巡もなく、自らが拠って立つ自己完結的な存在性それ自身によって、あっという間に空気を変色してしまう決定力をいとも簡単に身体化させしめる、その圧倒的な支配力を目の当たりにさせられるその不気味さに対して、私たちは一体何と形容すべきなのか。

ここに一人の男がいる。

この男は、「アメリカ」という帝国的な「国家」による外的強制力の一部分を、堅固に守る律儀な性格を持ち合わせていたために、予測し難い交通事故に遭遇し、大怪我をしてしまう。交通ルールをきちんと守って走行する男の車に、一時停止を無視した車が衝突し、その結果、腕の骨が皮膚から飛び出る重傷を負ってしまうのである。

一命を取り留めた男は、子供にシャツを売ってもらって腕を吊り、そのまま、まるで何事もなかったかのようにして、平然とその場所から去っていくのだ。

このカットが、際立って毒気の強い映像における、この男の最後の「雄姿」を伝える描写となった。

律儀なまでの男の規範意識は、全て内側から組織されてきたものだ。

その行動規範に則って行動し、生きてきたに違いないのだが、多くの場合、「国家」が強いる法体系という名の重要な行動規範を無視したことによって、男は無慈悲な殺人鬼と呼ばれ、なお捕縛されずに自己基準によってこれからも動いていくのであろう。
 
交通事故に遭う直前に、男は自分のルールに則って、命を請う振舞いを見せたかのような若い女性を殺害してきたばかりなのである。

このシーンが、映像を通して、男が最後に「記録」した殺人となったが、実はそれ以前にも、何人もの罪なき人々や同類の犯罪者が、この男によって絶命させられてきているのだ。

肝心な部分での心理描写を半ば確信的に捨てたであろうこの恐るべき映像は、この男によって一貫して支配され、リードされていて、観る者は否が応でも、男の堅固な行動規範の超越性を見せつけられていくのである。

男は人生を、コインの表か裏によって判断する賭けごとのように考えている。

男が投げたコインが表と出るか裏と出るか、その結果によって、男が命令した相手の生死をも決定づけてしまうのだ。
 
先の若い女性(男によって追跡された、ベトナム帰還兵の女房)の前に、まるで予約された悪霊のようにして出現した男は、そのときもまた、女に自分の生死をコインで判断させようとしたのである。

以下、そのときの二人の会話。

「私を殺しても意味はない」
「だが約束した。お前の亭主に」
「主人に私を殺すと約束したの?」
「彼には君を救う機会があった。だが、君を使って助かろうとした」
「それは違うわ。そうじゃない。殺す必要はないわ」
「皆、同じことを言う」
「どう言うの?」
「“殺す必要はない”」
「本当よ」
「せめてこうしうよう。表か裏か」
「・・・決めるのはコインじゃない。あなたよ」
「コインと同じ道を俺は辿った」 

最後の男の言葉は意味深だったが、ともあれ、映像はその殺人現場を映し出さなかった。

しかし、女の家を出た後の男の仕草(血糊が付いたであろう靴を地面に叩く)によって女が殺害されたことを、観る者は認知するのである。

勿論、男の仕草がなくても、男が女を殺害したであろうことは、本作と付き合ってきた鑑賞者には了解し得るだろう。

なぜなら、男はコインによって相手の生死を決定づけるという恐怖ルールを、決して反古にしないことを知り得るからである。

大体、男の独自で畏怖すべきルールの基幹には、「犯行現場で自分の顔を見た者」と「自分の命令に逆らった者」、「自分の行動継続に邪魔になる存在」は必ず殺すという行動規範が厳として存在するのである。女もまた、自分が与えたコイントスの「チャンス」を拒否したから、殺害される運命から逃れられなかったのだろう。
人生は賭けごとであるが故に、人は誰でも、これまでずっと賭け続けてきた歴史を持つという認識が男の内側で前提化されているから、男によって与えられたと信じさせるに足るコイントスの「チャンス」を、相手の恣意性によって拒むことは決して許されないのである。

コインで相手の生死を決定づける描写は、本作の20分後にあった。

ガソリン代を支払う際の、男と雑貨店主の会話がそれである。

以下、少し長いが、本作の本質を集約したかのようなこのシーンの重要性を無視できないので、5分間にも及ぶその不条理なる会話を再現してみよう。

「途中、雨に降られました?」と主人。
「どの道で?」と男。
「ダラスからでしょう?」
「どこから来たか、お前に関係あるか?」
「意味はありません」
「意味はない?」と男。
「ただの世間話です。それで頭に来るのならどうしたらいいか…他に何か?」と主人。

この辺りから、自分の対話相手が尋常な人間ではないことを感受するが、相手によって偶発的に作られた状況から、如何にも人の良さそうな老主人は出口のない袋小路に捕捉されてしまうのである。

「さあ、あるかな?」と男。
「気に入りません?」と主人。
「何が?」
「何でも」
「“気に入らないことがあるか”と俺に聞くのか?」
「他に何か?」
「さっき聞いたよ」
「そろそろ店を閉めるので」
「店を閉める?何時に?」
「今です」
「だから何時に閉める?」
「普通は暗くなる頃に」
「何を言ってるんだ?」
「はい?」と主人。
「何を言ってるか、分ってないだろ?」と男。

厄介な相手を満足させ得る適切な答えが見つからず、老主人は困惑し切った表情を露わにするばかりである。

「何時に寝るんだ?」と男。
「はい?」
「耳が悪いのか?お前は何時に寝るんだ?」と男。
「大体、9時半頃だと思います」
「その頃、また来る」
「なぜです?閉店するのに」
「聞いたよ」
「もう閉店します」
「裏の家に住んでいるのか?」と男。
「ええ、そうです」
「生まれた時から?」
「以前、ここは女房の父親のものでした」
「財産目当ての結婚か?」
「長いことテンプルに住んでいました。子供を育てたのもテンプルで、ここに来たのは4年前」
「財産目当てか?」
「そう言うなら…」
「俺がどう言おうと、それは事実だろうが」と男。

男は菓子の包み紙を握りつぶし、テーブルの上に置いた。

「過去にコインの投げの賭けで、負けて失った一番大きいものは何だ?」と男。
「さあ、分りません」と主人。
「当てろ」
「私が?…何を賭けて?」
「いいから」
「表か裏を言う前に何を賭けるかを…」と主人。
「お前が言うんだ。俺が言ったらフェアじゃない」と男。
「何も賭けていません」
「いや、賭けたよ…お前はずっと賭け続けてきた。このコインの発行年は?」
「さあ」
「1958年。22年旅をして、これは今、ここにある。表か裏か、どっちか言え」
「勝ったら、何をもらえるんです?」
「全てだ」
「と言うと?」
「勝てば全てが得られる」と男。
「それでは…表です」と主人。
「・・・よく当てた。・・・ポケットにしまうな、それは幸運のコインだ」
「どこに入れたら?」
「ポケット以外だ。ただのコインと交ざってしまう・・・ただのコインだが」

絶対に口答えが許されない恐怖と、相手を満足させるに足る答えが見い出せない恐怖が、そこにあった。
 
 
 
(人生論的映画評論/ノーカントリー('07) コーエン兄弟  <「世界の現在性」の爛れ方を集約する記号として> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/04/07.html