リービング・ラスベガス(‘95) マイク・フィギス <約束された大いなる破綻と、掬い取られた純愛譚>

イメージ 11  「奈落の底」に閉じ込められた男の極限的様態を描き切った傑作



登場人物の心理をフォローするようなBGMの多用に些か滅入るが、しかし、この映画は悪くない。

相当程度において上出来である。

この映画が高い評価に値するのは、女の純愛の強さが、「死に至る病」に捕捉された男の心を浄化し、「本来あるところの人格像」にまで復元させていくという、ハリウッド流の綺麗事満載のハッピーエンドに軟着させなかった点である。

二人の関係が、そのような流れにシフトしていかないのは、映像で提示された二人の人格の振れ具合を見ていけば瞭然たる事実であった。

この文脈から敷衍すれば、男のアルコール依存症のルーツの内実が、物語からすっぽりと欠落していた構成に対して、特段に違和感を覚えなかったのは充分に了解可能である。

 男がなぜ、ここまで堕ちてしまったのかなどという発問は、正直、どうでもいことなのだ。

 大体、アルコール依存症の原因分析が継続的に受け継がれてきて、その特徴的症状を説明できても、今なお、遺伝要因と環境要因の脈絡が指摘できる程度で、その正確な分析を答えることが困難なのは、他の多くの厄介な疾病と同様に、医学というフィールドのボトルネックであると認識すべきであろう。

私たちの世界には、あまりに分らない事象が多過ぎるのだ。

それは、情報社会の加速的定着化と軌を一にすると言っていい。

本作の作り手は、アルコール漬けの主人公に、そのルーツの分らなさを語らせていたことで判然とするように、理由をつけたければ、観る者が勝手に解釈すればいいというスタンスを貫徹させていた。
 
この映画には、そんな確信犯的な問題意識が垣間見えるので、この陰惨な物語の構成マターの戦略に異を唱える何ものもない。

「例えて言うなら、どん底と奈落の底の違い」

本作のレビューで見つけた鋭い指摘である。

このレビュアーの指摘に、私は基本的に同意する。

レビュアーの把握とどれほど重なるか疑問だが、この映画での要諦は、どこまでも、「奈落の底」に閉じ込められた男の病理の極限的様態を描き切ったこと。

そして、そこに「どん底」の生活に喘ぐ女が、分かち難く寄り添い、シビアなまでに救済困難な現実を絡ませることで、安寧に交叉し得ない二人の厄介な人格の出入り口を塞ぐという、常識的であるが故に、却って節くれだった風景を射程に収納させてしまう、絶望的な純愛譚の一瞬の輝きと、その輝きを呆気なく食い潰す圧倒的な破壊力を内包する、地虫の匍匐(ほふく)の如き、哀しくも愛おしい一つの変換不能の物語を提示したこと。
 
これが、作り手のイメージラインであったように思われるのである。

以下、この問題意識に則って、本作を読み解いていきたい。



2  アルコール依存症の破壊力



アルコール依存症は、逸脱せねばならない者の病理であるとも言う。

 では、何からの逸脱なのであろうか。

 「習慣性飲酒」の結果、アルコール依存症という深みに嵌(はま)ったりしたとしても、深みに嵌るに足る何某かの因果関係があるはずだ。

 それは単に、アルコールを適量で飲むことの、見えない規範からの逸脱だろうか。

飲酒そのものが共同幻想を醸成し、その甘美な連帯感に酩酊することへのアンチテーゼとして、孤独なる過飲者を演じ続けるのだろうか。
 
柳田國男は、「酒の飲みようの変遷」(「木綿以前の事」所収 岩波文庫)の中で、中世以前の酒がまずかったにも拘らず、人々が酒を飲んだのは、酔って裸になることで共同体内の関係を円滑にしようと考えたからであり、この文化が近代にも継承されたと分析している。

 飲酒の文化は、コミュニティ維持の潤滑油であり、孤独なる心の癒しの秘薬として、今も有効である。

しかしアルコール依存症者は、社交を基本的モチーフとする飲酒の文化にアクセスせず、総じて孤独に潜り、確信的に適量水準をオーバーフローしていくパターンを残す。

どう見ても彼らは、一般的モチーフからの逸脱の意思を示している。

少なくとも、酒を手段にする一般的モチーフと異なり、彼らの飲酒には酒そのものが目的化したモチーフが潜むようにも見えるのだ。

 彼らにとって、酒は社交の道具などではない。

 酒というものの代名詞であるアルコール濃度それ自身を、彼らは体内に吸収しようとしている。

そう見えるのだ。

彼らには、酔うことそのものが目的なのである。

別に楽しく酔う必要もない。

楽しく絡み合うことを目指さないから、彼らには仲間が不要なのだ。

あまりに楽し過ぎて、結果的に適量を超えていく普通の酒飲みのケースと異なって、アルコール依存症者が常に過飲に嵌るのは、日夜飲み続けていれば酩酊ラインが高くなり、酔うことを目指した彼らの飲酒が簡単に落ち着かなくなって、どうしても過飲にまで進んでしまうからである。

 彼らをここまで逸脱させるその心の地図には、恐らく、幼少期からの複雑な事情が描き込まれているに違いないが、それもまた不分明であるだろう。
 
彼らの現在に潜むトラウマや欠損感覚を、圧倒的な「酔いの力学」によって潰しにかかる戦術は、或いは、この国に80万人以上もいるとされる、アルコール依存症者という偽装化した方法論であるのかも知れないのである。

 それでも、私たちは理解せねばならない。

アルコール依存症は、飲酒行動を自己コントロールできず、強迫的に飲酒行為を繰り返す精神疾患であるという事実を。

「大切にしていた家族、仕事、趣味などよりも飲酒をはるかに優先させる状態」(アルコール依存症厚生労働省HPより)

これは、この国のアルコール依存症に対する定義である。

「具体的には、飲酒のコントロールができない、離脱症状がみられる、健康問題等の原因が飲酒とわかっていながら断酒ができない、などの症状が認められます」(同上)

ここで言う「離脱症状」とは、所謂、「禁断症状」のこと。

「軽~中等度の症状では自律神経症状や精神症状などがみられます。重症になると禁酒1日以内に離脱けいれん発作や、禁酒後2~3日以内に振戦せん妄がみられることがあります」(同上)

この「振戦譫(せん)妄」こそ、「離脱症状」の中核を成す恐怖の現象である。

飲酒の中断後、すぐに不安・精神混乱・興奮・発汗・発熱などの自律神経機能の亢進・手の震え・幻覚・意識障害などの症状が現出し、適切な処置を施さなければ、死亡する場合もある厄介な症状である。

重度な依存症のケースでは、「離脱症状」からの「解放」のために、却って過飲状態になるから、この負の循環が肥大化し、「死に至る病」の決定的因子と化す。

この状況下では、もう、自分の意志で酒を断つことが殆ど不可能になる。

何より厄介なのは、アルコール依存症者には、彼らの過飲状態を助長する特定他者の存在が現出してしまうことである。

これを、イネーブラーと呼ぶ。

他者に必要とされることによって、自分の存在意義を見い出す特有の関係性の状態としての、「共依存」の関係を後押しする存在 ―― それが、イネーブラーである。

だから、家族や友人など、このイネーブラーの存在は、依存症者に自覚的反省を引き出すことなく、単に関係性を自壊させないために、彼らの過飲状態を許容してしまうのだ。
 
 
3  娼婦稼業を繋ぐ女と、飲み続けた果てに昇天する男の情感的交叉の物語



ここからは、鮮烈な訴求力を放つ、この「リービング・ラスベガス」について批評していきたい。

本作は、死ぬまで酒を飲むことを決意したかのような壮絶な一生を描いて、観る者に、「スケアードストレイト」(恐怖実感教育)の可視体験の効果にも似た印象を刻んだ、伝記的映像の傑作であることは疑いようがない。

アルコール依存症の凄惨なる極点の風景を描いていて、観る者の心に「他人事」と思わせないような、ある種の圧迫感を惹起させるのだ。

 だからこそ、BGMの多用を不可避としたのだろう。
 
確かに、BGMの癒し効果なしに、映像世界との心理的共存は難しかったかも知れない。

それほどまでに効果的だった事実を認知しつつも、個人的にBGMの多用は苦手なので、こればかりは仕方がない。

死ぬまで酒を飲むことを決意した、本作の主人公の話に戻そう。

主人公の名はベン。

ベンは、酒を手段にする一般的モチーフと異なり、社交の道具とは無縁であるばかりか、酒そのものが自己目的化したモチーフと化して、ひたすら酔うために、激甚な破壊力を隠し持つアルコールの大海に浸かっていく。

表面的には、離脱症状を避ける目的で飲酒を繰り返すという行為の背景を、「自己自身からの逸脱の踠(もが)き」の心理が漂動し、支え切っているようなのだ。

 それが、「自己自身からの逸脱の踠(もが)き」であるということは、アルコール依存症が遂に自己を食(は)む恐怖をも内包するだろう。

しかも当人は、医療に身を投げ入れる行為を、断固として拒絶する。

既にこの事実は、「死に至る病」という宣告を受けても全く通用しないほどに、「自己自身からの逸脱の踠(もが)き」の漂動が、今や、極点にまで突き抜けつつある厄介な現実を露わにしていた。

だから、医療に身を投げ入れる行為それ自身をも無化し、屠ってしまったら、いよいよ、「酔いの力学」で潰しにかかり、男の内側に、その深くて重い病理が解き放たれる日が、永久に開かれる奇蹟は現出しないだろう。
 
「なぜ、酒を飲み始めたか?女房が俺を捨てたからか、酒を飲むから女房が逃げたのか?今更、どうでもいい!」

主人公ベンの冒頭部分の台詞である。

最初から、アルコール依存症者の重篤な病人と化している男の、復元不能な相貌性が露わにされていた。

それは、銀行で小切手を現金化するときに、手の震えという「振戦譫(せん)妄」の、典型的な離脱症状(禁断症状)の現象化のシーンに顕在化されていた。

 
 
(人生論的映画評論・続/ リービング・ラスベガス(‘95) マイク・フィギス <約束された大いなる破綻と、掬い取られた純愛譚>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/12/95.html