しゃべれども しゃべれども('07) 平山秀幸 <「ラインの攻防」 ―― 或いは、「伏兵の一撃」>

イメージ 11  絶対防衛圏



噺家(はなしか)の名前を何人知っているだろう。テレビによく出ているので3、4人。そんなもんじゃないだろうか。東京で450人あまり、上方も合わせれば600人以上。それが現役の噺家の数だ。寄席は都内でたったの4軒(注1)。そう仕事にはありつけない。それでも扇一本、舌先三寸で身を立てようというバカは後を絶たない」

このナレーションの主は、今昔亭三つ葉

18歳のとき、小三文師匠の内弟子に入って、現在は二つ目(注2)の格付けのポジションにある。お笑いブーム、落語ブームと言われて久しいが、実際は、このナレーションにあるように、落語の芸のみで見過ぎ世過ぎを立てるのは難しい。

映像では、歌舞伎を見るための金が足りず、祖母に金策を求める描写が挿入されていた。


(注1)東京の鈴本演芸場新宿末廣亭浅草演芸ホール池袋演芸場の4軒。1960年代以降は、ホール落語が全盛となり、三越劇場紀伊國屋ホール横浜にぎわい座(2002年)毘沙門ホール等が有名。

(注2)落語家の格付で、前座と真打の中間の身分。落語会の開催や、放送メディアへの出演、羽織の着用が許される。


「俺は古典しかやらないと決めている。熊さん、八っつあん、与太郎、御隠居、若旦那、海苔屋の婆まで、好きで好きで、この世界にどんぶり飛び込んだんだ…前座で見習いを4年。22で二つ目になって、何とか一人前だ。二つ目から真打まで、おおよそ10年。腕が良ければ10年もかからない。下手だと後輩にどんどん抜かれる」

このナレーションの主も、当然の如く、同一人物。

古典落語に対する三つ葉の拘泥(こうでい)の深さが伝わってきて、映像の中でも、新作専門の二つ目から、「着物が似合わない。新作やろうよ」と誘われても、頑固一徹の姿勢を貫くのだ。

些かジョーク含みで言えば、メディア受けを狙って新作に走る若手の噺家が多い中で、彼にとって古典落語の存在価値は、単に好きだからというモチーフのみではなく、「好きだからこそ、守り続けねばならない芸」であり、まさに「絶対防衛圏」としての揺るがぬ価値が、そこに存在するのかも知れない。

ところが、そんな勇ましい啖呵(たんか)を切っても、三つ葉の師匠の今昔亭小三文から見れば、彼の芸はあまりに未熟なのである。

それでも彼は、師匠に直談判して、新しい話の教示を求めて止まないのだ。

この男には、話を多く増やすことで、一人前になれると思っている節がある。

そんな厄介な弟子を前に、師匠は厳しくダメを押す。

「数ばかり増やしてどうするんだ。大体、お前さんはね、工夫っていうもんが足りませんよ。おいしいとこだけ取ってもダメなんだよ。頭悪いな。俺の話の人物はな、俺がこさえたの。お前の話聞いているとさ、俺がせこ(注3)になったみたいでやなんだよな」
「ダメですか?」
「上手いかせこかは、客が決めるんだ。誰もお前の話なんか聴いてねえじゃねえか。向こうが聴こうって気がなきゃ、幾ら喋ったって、喋ってねえのとおんなじだよ」
「こっちは聴いて欲しくて喋ってんです」
「分ってねえなあ、お前も。何年、同じことやってるんだ。ただ喋りてえなら、壁でも向かって喋ってな」

師匠の言葉には、この世界特有の毒気があったが、本質は外していなかった。師匠は弟子に主体的で、独創的な努力を求めているのだ。
この言葉の深い意味を弟子が深い所で理解するには、当人自身の何か斬新な取り組みによる自己変革が必要であるという含みがあり、それが物語展開の重要な伏線になっていくであろうことが、観る者に容易に想像できる流れであった。


(注3)寄席の楽屋符丁(隠語)で、「下手」という意味。


「現代話し方教室」を主催する師匠に随伴した三つ葉は、そこに参加した一人の若い女性が、不機嫌な様子で部屋を出て行くのに反発して、声をかけた。

「今の話のどこがまずかったんです?高い授業料、払ってるのに帰ることないでしょ。つまんなかったんですか?どこがつまんなかったんです?」

それでも答えない女に、「あんた、髭似合いそうだな」などとジョーク混じりで交わしたら、女は一言。

「本気で喋ってないじゃない。ただ、口動かしていただけじゃない。あの人、あたしたちを舐めてる」
「師匠は、どこ行ったってああだよ。相手が殿様だろうが何だろうが、あんなもんだ」

この三つ葉の言葉に答えず、彼女は建物から出て行こうとした。

この行動に不快な気分を突き上げて、三つ葉は女性の後方から言葉を放った。

「出て行くのはあんたの勝手だが、話の途中ってのは無礼だろ。おい、聞いてるのか」

女はここで止まった。三つ葉は畳み掛けていく。

「落語、聴いたことあんのか?テレビじゃなくて生で。一度、師匠の話、聴きに来るといい。そっちが本業だ」

女は去りながら、言葉を添えた。表情に変化が見られない。
「何で、自分の話を聴きに来いと言わないの」
「言えば、来るのか?」
「行かない」
「今度の日曜、朝10時。場所は浅草東洋館。二つ目ばかりが4人喋る。俺も喋る」

三つ葉は後方から、去っていく女に一気に捲(まく)し立てた。


―― このシーンに至るまでのテンポの良い展開は、落語の世界に生きる男の律動にピッタリ重なっていて、観る者の好奇心を巧みに誘導する抜群の効果を醸し出していた。加えて、ここでの若い男女の出会いとその会話の内に、映像をリードする二人のキャラクター性が典型化される描写になっていて、以降の物語展開の骨格を示唆するラインが読解できるものでもあった。

 
 
(人生論的映画評論/しゃべれども しゃべれども('07) 平山秀幸 <「ラインの攻防」 ―― 或いは、「伏兵の一撃」> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/08/07_27.html