ソーシャル・ネットワーク('10)  デヴィッド・フィンチャー <「夢を具現する能力」にシフトした「夢を見る能力」が負う、「具現した夢を継続する能力」が内包する責任の重大さについての物語>

イメージ 11  自らが拓いた前線で手に入れたものと、失ったものの価値の様態①



時代の風穴を穿(うが)つことに、全神経網を集中的、且つ、継続的にフル稼働させていく能力において抜きん出た若者が、自らが拓いた前線で手に入れたものと、失ったものの価値の様態を、観る者の感情移入を遮断させるに足る距離感覚を保持させつつ、限りなく客観的な筆致で捕捉した映像の凄みに、言葉を失う程だった。

回想シーンと現在進行形のシーンをクロスカッティングさせながら描かれる映像は、前者が、手に入れたものの価値の様態を描くのに対して、後者は、前者によって失ったものの価値の様態を再現していくのだ。

手に入れたものとは、「富」と「名声」である。

マーク・ザッカーバーグは世界最年少の億万長者である」という、エンドロールのキャプションにあるように、「富」と「名声」を手に入れた若者の価値の様態とは何だったのか。

その由々しきテーマに関与するが故に、ここで、全神経網を集中的、且つ、継続的にフル稼働させていく能力において抜きん出た若者が、本作で身体化された「創造力」について考えてみたい。

失恋相手への不徳的リベンジから転じて、他者に押し付けられる行動規範への妥協の拒絶が人格内化されることで累加してきたに違いない、持前の自在性を肝にした「創造的精神」のうちに、そのモチベーションを昇華させていった、この若者の心理的推進力こそが、物語の軸となっていく振れ方を決定づけるので、「創造力」についての定義から起こしてみよう。

「創造力」 ―― それは、既成の概念・発想に一切囚われることなく、自らが選択した課題に対して新しいアイディアを着想し、それを自ら実践することで、新しい価値を生み出す能力である、というのが私の定義。

従って、それは、継続的な実践性を伴わない、単なる「思いつき」の次元で留まる何かと別れると言えるだろう。

この「創造力」を身体化させていくプロセスの中で、「富」に象徴される欲望の稜線の広がりが共存的に強化されていくのは必然であるし、それが、バーナード・ワイナー(米国の心理学者)が提示した、成功と失敗の因果関係の要素の一つである「課題困難度」のハードルを上げていくことで、達成動機を加速的に強化していく現象には特段の問題がない。

それ故にと言うべきか、「創造力」を身体化させていく行程を通して、「富」と「名声」手に入れた者に対する評価の中に、「人格性」という極めて曖昧な尺度を嵌めこんでいくことで、世俗的な囲い込みの振舞いが流れていく、「道徳」という名の、当該社会の規範体系に拠った情感言語の無邪気な集合による攻撃性には、大いなる違和感を持つのである。

なぜなら、「創造力」という概念は無論のこと、「富」と「名声」という世俗的言辞もまた、「心の優しさ」とか「思いやり」などという、位相の異なる別次元の世界に収斂される倫理学の範疇の概念ではないからだ。

単なる「思いつき」の次元で留まる何かとも異なる、「創造力」のフル稼働の文脈には、既成の倫理学の範疇を突き抜ける破壊力とも、しばしば同居する含みを持つからと言って、極めて曖昧な、倫理学の世俗的な囲い込みにうちに支配される何かではないのである。

老若男女を問わず、「富」を手に入れることそれ自身、或いは、「富」を手に入れるために必死に自らを駆動させていく行為を、倫理学の範疇で裁断する発想はあまりに貧弱であり、傲慢ですらあるだろう。

大体、ハイリスクな危機突破の自給熱量を総動員したり、得難き「創造力」を果断に身体化させていったり、等々の因果に関わらず、ビジネスの最前線で手に入れた「富」や「名声」に年齢制限など存在し得ないのだ。

「金儲け」に走ることの、どこが問題なのか。

「金儲け」に走る企業活動の、どこが問題なのか。

ともあれ、個人的には、映像で映し出された限りの、本作の主人公の曲折的な生き方の振れ具合に対して、何の感慨も魅力も感じることがない私だが、これだけは断言できる。
 
本作の主人公であるマーク・ザッカーバーグの推進力となった「創造力」を、安直な「模倣」と揶揄する人たちは、「改造力」もまた、「創造力」の範疇に属することを認知できないということ。

だから、彼のフェイスブックの立ち上げは、彼の全神経網を集中的、且つ、継続的にフル稼働させていった、稀有な「激情的な習得欲求」(米の女性研究者による、「天才」の内的条件の把握)⇒「一点集中力的な『創造力』の開発欲求」という能力の所産であることを認めざるを得ないのである。

本作がサクセスストーリーとして構成されていない事実の認知とは無縁に、既成の概念・発想に一切囚われることなく、自らが選択した課題との対峙の中で着想したアイデアを、ハイリスクな危機突破の自給熱量を駆使し、全く臆することなく、全人格的に実践したからこそ、彼は決定的に成功し、その結果、「富」と「名声」を手に入れたのだ。

彼の手に入れたもの価値の様態は、抜きん出て高い彼の能力の結晶以外ではなかったのである。


(人生論的映画評論・続/ソーシャル・ネットワーク('10)  デヴィッド・フィンチャー <「夢を具現する能力」にシフトした「夢を見る能力」が負う、「具現した夢を継続する能力」が内包する責任の重大さについての物語>より抜粋)http://zilgz.blogspot.jp/2012/03/10_25.html