大いなる西部(‘58)  ウィリアム・ワイラー <西部劇という名の、二つの「攻撃的正義」の虚しい争いの様態を描き切った一級の名画>

イメージ 11  強いメッセージ性を内包する名画



「大いなる西部」は、ニューシネマ以前に作られた西部劇の中で、フレッド・ジンネマン監督の「真昼の決闘」(1952年製作)と双璧を成すほどに、強いメッセージ性を内包する名画である、と私は考えている。

 「西部劇」という衣装を被せながら、両作とも、駅馬車に乗り合わせた人々の人間ドラマという体裁を確保しつつも、その内実は、ネイティブ・アメリカン(ここでは、アパッチ族の1部族)を「悪」の象徴として描いた「西部劇の最高傑作」・ジョン・フォード監督の「駅馬車」(1939年製作)のように、騎兵隊=「善」というマニフェスト・デスティニーの思想を定着させた時代状況下で、ネイティブ・アメリカン退治をメインにした作品と切れて、既にネイティブを駆逐し、領土を拡大しつつある白人的開拓精神という名のアナーキーな大地で、「勧善懲悪」のストーリーの骨子を排除した、メッセージ性の純度の高い一篇に仕上がっていた。
   
保安官バッジを投げ捨てたラストシーンに集中的に表現されているように、「マッカーシズム」の大攻勢の前で「防衛的正義」からも逃避し、「沈黙」を余儀なくされたハリウッドの欺瞞性を鋭利に衝く「真昼の決闘」の強いメッセージ性と分れ、本作のメッセージ性は、遥かに普遍的な包括力を内包していた。

私怨にまで膨張した、「攻撃的正義」を振りかざす男たちの拠って立つ価値観が、意地と虚栄と欲望の集合的情動にまで肥大し切ったときの爛れの様態。

その醜悪さを、一貫して「防衛的正義」に拠って立つ主人公の人物造形との「対比効果」によって、鮮やかに描き出したこと。

これが、「大いなる西部」のメッセージ性の内実であると言っていい。

ここじゃ、自分が法だ」と誇示する者の如く言い放つ男たちの「攻撃的正義」の欺瞞性を衝くには、「西部劇」という「何でもあり」の風景を借景にする手法は、そこに娯楽の要素を嵌め込められる分だけ自在な表現を駆使できるが故に、極めて有効な戦略だったということか。

その辺りの批評の詳細は後述したい。



2  人生観に関わる根源的な乖離を提示した破綻なき映像構成 ―― 本篇の梗概



1870年代のテキサス州での物語。

大西部の一画で牧場を経営する、テリル少佐の一人娘パットとの結婚のため、紳士ハットを被り、東部から遥々やって来たジェームズ(ジム)は、到着早々、西部で呼吸を繋ぐ者たちの荒っぽい洗礼を受ける。
 
乾期になると、決まって、テリル少佐と水源のある土地ビッグ・マディを巡る争いを常態化させていた、一方の勢力・ヘネシー家の息子パックたちによる、悪戯含みの手荒い洗礼だった。

以下、この一件を知ったテリル少佐と、手荒い洗礼に「非暴力」を貫いたことで、「臆病者」呼ばわりされるジムとの会話。

「名誉と名声は、男の大切な財産だ」
「しかし、名誉のために死ぬ必要はない。決闘の理由も曖昧です」
「西部では、自分を守るのは自分だ。甘く見られてはいかん。本当だぞ」
「昨日の件ですね」
「責める気はない。だが、ヘネシーの奴らに遠慮はいらん」
「不愉快でしたが、荒っぽい歓迎には馴れています。船でもそうでしたから」
「娘がいたのでは、銃は使えんしな」
「いなくても使いません。あの手の連中は、世界中の港にいます」
「それは違う。奴らは人間のクズなんだ。獣のように暮らしている。洪水か何かで、一人残らず死ねばいい」

「非暴力」を貫いた元船乗りのジムに、「無法地帯の西部」で生き抜く知恵を伝授したつもりのテリル少佐にとって、娘の婿になる男の「臆病さ」が気になるが、未だその関係に亀裂が入るまでには至らない。

「保安官事務所まで320キロある。ここじゃ、自分が法だ」

しかし、そう言い放って、「昨日の件」のリベンジに打って出る、テリル少佐と牧童頭のリーチたち。
 
これが、「無法地帯の西部」で生き抜く彼らの唯一の方略だった。

「あなたの行為は、個人的な仕返しだ」

このジムの反対の意志など、全く通じない世界がここにあった。

「臆病者」呼ばわりされたジムが、暴れ馬のサンダーを乗りこなすエピソードがインサートされたのは、ヘネシー家へのテリル少佐の殴り込みで、牧場が留守になったときだった。

暴れ馬のサンダーに乗り込もうとしても、その度に振り落とされるジムが、しくじっても繰り返し、遂に最後には、暴れ馬と一体化し、乗りこなしたのである。

このシーンで重要なのは、馬の世話係であるラモンに、サンダーの一件を口止めにさせたこと。

「自分の勇気を見せつけても、そのことによって証明し得る何ものもない」、

これが、ジムの生き方だった。

だから、「臆病者」呼ばわりされても全く気にしないのだ。

テリル少佐の娘で、ジムの婚約者であるパットに横恋慕する、牧童頭のリーチから喧嘩を売られても、一向に相手にしないジムへの不満が募っていくばかりのパットの短絡的な性格には、明らかに、父譲りの狭隘なメンタリティーが張り付いていて、二人の愛情の継続力に暗い影を落としていた。

そんなるジムが、テリル少佐とヘネシー家との、抜き差しならない対立の主因がビッグ・マディにある事実を知って、単身、動いていく。
 
まるで砂漠の中の点景でしかない、ビッグ・マディの女主人ジュリーの家を目指し、西部の広大な大地を、地図とコンパスを駆使して辿り着き、そこで、牧場の売買交渉に及んだのである。

「私に売ってくれれば、ヘネシーに、このを分けてやる。テリルにもだ。そうすれば平和を保てる」

誠意のこもった本気の思いを乗せた、このジムの言葉に心を動かされたジュリーは、牧場を売る決意をするに至る。

この果敢な行為に打って出たジムを夜通し捜索するリーチにとって、「西部の男」に染まろうとしないジムの態度は目障りなだけだった。

更に、父のテリル少佐の価値観に同化するパットもまた、漸次、ジムとの心理的距離を広げていくばかりで、婚約関係にあるカップルの睦みの風景の印象と切れていた。

ジムが、テリル少佐の牧場を去っていくのは必至だったのである。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/大いなる西部(‘58)  ウィリアム・ワイラー <西部劇という名の、二つの「攻撃的正義」の虚しい争いの様態を描き切った一級の名画>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/12/58.html