桐島、部活やめるってよ(‘12) 吉田大八 <「現代の青春」の空気感を鋭く切り取った青春ドラマの大傑作>

1  「現代の青春」の空気感を鋭く切り取った青春ドラマの大傑作

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映画を観ていて、涙が止まらなかったのは、いつ以来だろうか。

外国映画なら人間の尊厳を描き切った、ワン・ビン監督の「無言歌」(2010年製作)という生涯忘れ難い作品があるが、邦画になると殆ど記憶がない。

敢えて言えば、映画評論を書くために、何十年ぶりかで再鑑賞した市川昆監督の「破戒」(1962年製作)くらいだろうか。

市川昆監督は大好きな映画監督の一人だが、「破戒」はあまりに感動的に描き過ぎていて、それが却って私の不満になっていた。

市川昆監督らしくなく、感動を意識させた映画の作り方に違和感を覚えたからである。

ところが、本作は違った。

震えが走る程だった。
 
閉鎖系の学校空間で、そこだけは解放系の限定スポットとして、天に向かって開かれている屋上に、物語の主要な登場人物たちを集合させ、そこで各自の情動が衝突し、炸裂する青春を描き切った構成力の見事さに震えたのである。

本作の構成力の見事さは、決して偶然の産物ではない。

この「屋上の炸裂」に至るまでに、それぞれ立場が違う視線で描かれた高校生たちが抱える様々な葛藤の、その本質的な部分を巧みに拾い上げて辿り着いた、解放系の限定スポットで表現された描写があまりに構築的だったので驚嘆したのである。

群像劇の物語を、僅か100分余でまとめ上げた演出力の精妙さは、その演出によって、活き活きと表現された現代の高校生たちのリアリティ溢れる描写のうちに検証されるだろう。

それは、このような構築的な映像を創る映画作家が、漸くこの国に出現したと思わせるに足る素晴らしさだった。
 
全てに無駄がなく、且つ、映像表現の力を信じて、最後まで物語を支配し切った吉田大八監督の力量に脱帽した次第である。

本作は、〈状況〉をきっちり描いて成功した、ガス・ヴァン・サント監督の「エレファント」(2003年製作)のように、桐島、部活やめるってよ」という由々しき情報が、関係者に伝播するシーンが繰り返し挿入されることで分明なように、時間軸を巧妙に動かすことで、登場人物の様々な視座を変えていく物語構成によって、日常性の中枢的拠点としての学校空間に呼吸を繋ぐ者たちの、その多角的な視座を複層的に交叉させながら、ノスタルジーの格好の対象である青春をチャイルディッシュに美化することを拒絶し、そのことによって鮮やかに浮き彫りにされる、この国の「現代の青春」の空気感を鋭く切り取った青春ドラマの大傑作であった。



 2  「屋上の炸裂」での嗚咽に辿り着くまでの心情変容の振れ幅 ―― 宏樹の浮遊感

 
 
ヒッチコック 映画術 トリュフォー」)(山田宏一蓮實重彦訳 晶文社)で多用されたヒッチコックの常套的な概念に、「マクガフィン」という言葉がある。

 登場人物を動かす正体が不明な物のことで、それは一種の記号であるが故に、具体的な意味を持ち得ない何かである。

本作では、紛れもなく、桐島という、校内で圧倒的な影響力を持つ高2男子が、「マクガフィン」の役割を果たしていた。

それ故、「マクガフィンである桐島とは、「一体何者なのか?」という問題提示は一切意味を持ち得ないのである。(注)

本作の基幹テーマは、桐島とは「一体何者なのか?」という詮索などになく、リベロとして、とある県立高校の男子バレー部のキャプテンで、県選抜に選出されるほどの活躍していた桐島が、突然、前触れもなく部活を辞めるという事態に直面したことで、彼に関わっていた高校生たちの心理の揺動による振れ幅を通して、この国の「現代の青春」の様態をリアルに映し出すという一点にこそ集約されると言っていい。

この文脈の中で、実質的に、「桐島の不在」の設定を崩すことなく描き切っていくのである。

加えて言い添えれば、「スクールカースト」と言われる、心理的な階層構造の頂点に立っていた人物の選択的行為を問題提示することで、本来なら、ベタな青春娯楽編の主人公になっていただろうスーパーマンを不在にさせた映像は、このような青春娯楽編を作り続けてきた、この国の映画・テレビ放送の定番的コンテンツへのアンチテーゼの意味をも包含させていたとも思われる。

従って、本作の中で最も注目すべきは、スポーツ万能で学力優秀、更に、ハンサムで長身の高校生が、それ故に、定点に軟着し得ない浮遊感を表現する人物造形に成就したことにある。
 
桐島の親友でありながら、「桐島の不在」の理由を知らされることなく、それによって惹起した風景の変容の中枢で揺動する、宏樹という高2生。

実質的な主人公である彼こそが、複層的に交叉する物語の中浮き彫りにされた、この国の「現代の青春」の振れ幅の揺動感を集中的代弁していたと言える。

野球部に所属しながら、その泥塗れの体育会系の情動を自給できないのは、プロになるレベルに達していない認知能力によって自己を客観化しているが故に、いつもどこかで冷めてしまっている

だが、冷め切れない。

だから、葛藤が生まれる。

思うに、青春期の自我形成過程で重要な相対思考が確保されているという、「大人視線」から見れば、「夢追い人」を途絶させたような宏樹の存在の在りようには、何ら問題がないだろう。

しかし、当の本人の内側に、その現実を「問題なし」と括り切れない感受性が張り付いているから、「大人視線」のラインに沿って、合理的思考から導き出された感情文脈を預けられないのだ。

「桐島の不在」の問題が、そんな高2生の揺動する自我を、「当事者性」によって深々とインボルブしていったのである。

そんな宏樹が、高3の秋になっても、野球部を引退しないキャプテンとの興味深い会話があった。

「あの、キャプテンって三年じゃないですか。何で、引退しないんですか?いや、別に、夏が終わったら引退するから・・・」

直截に、宏樹は野球部キャプテンに発問する。

「ドラフトが終わるまでは・・・ドラフトが終わるまではね」
「キャプテンのとこに、スカウトとか・・・」
「来てないよ。来てないけど、ドラフトが終わるまでは、うん。悪い!行くわ、そろそろ」

 その一言を残して、野球の練習に向かうキャプテンに、宏樹は後方から言葉を投げかけた。

「あの、俺、次は・・・」

ここまで言いかけたとき、キャプテンの言葉が遮った。
 
「良かったら、応援だけでも来てくれよ。勝てそうな気がすんだ。次は」 

これで、二人の会話は閉じていった。

キャプテンが夜になっても、必死に素振りをしている場面を視認した宏樹は、大きく心を動かされて、このとき、「幽霊部員」を返上しようという思いを伝えたかったのだ。

しかし、既に「応援団」としての役割でしか見られていない宏樹にとって、高い感受性を有するが故に生まれる葛藤の克服は、いよいよ高いハードルになっていった。

思うに、恐らく、そこだけは類似しているだろう桐島と同様に、年齢相応以上の合理的思考を身につけている宏樹には、「夢を見る能力」の継続力が不足していたのであろう。

デヴィッド・フィンチャー監督の「ソーシャル・ネットワーク」(2010年製作)の稿でも書いたが、「夢を見る能力」が「夢を具現する能力」にシフトする心的行程には、それまでの自己基準的なリアリズムの枠内では収まり切れない、「夢」という名の心地良き物語を具現せんとする対象人格が放つ、シビアな客観的世界との対峙を回避し得ない冷厳なリアリズムが待機しているのである。

「夢」が自壊しないことによって、「夢」を自分なりに成長させてきた青春期の自我の懐(ふところ)深くに、外部世界とのリアルなリンクへの自己運動が、騒いで止まない情感系の心的行程の中で加速的に延長される、「夢を見る能力」のリアリズムの具象性に近い内的イメージが、この宏樹には感じられるのである。

そんな彼にとって、唐突な「桐島の不在」は信じ難きできごとだった。

なぜなら、彼は桐島の第一の親友であったからである

その親友が、自分に全く連絡せずに部活を止めることを決断したことは、「親友幻想」の揺らぎをも意味するのだ。

その揺らぎの中で騒ぐ心が捕捉したネガティブな感情は、桐島の登校を待機するという空虚感のみだった。

マクガフィンである桐島の人格像の詮索が意味を持ち得ないのを認知しつつも、敢えて想像力を膨らませて書けば、逸早く「大人」のリアリズムの世界に潜り込んでいったと思しき、「似た者同士」の桐島の選択的行為の現実に直面したことで、宏樹は「置き去り」にされたという思いを抱いたのかも知れない。
 
ここで見過ごしにできないのは、「桐島の不在」のその日、担任に配られた、宏樹の「進路希望調査票」が、「桐島の不在」後も空白になっていたという事実である。

恐らく、進路について選択的行為に踏み込んだと思われる桐島と切れて、宏樹の場合、仮に大学に進学しても、なお、全身をもって打ち込む何かを持ち得ない心象風景を映し出していたからである。

しかし、そんな心象風景は、彼に限らず、現代に生きる高校生の普通のイメージをトレースするものであるだろう。

ともあれ、映像を通して、少しずつ浮き彫りにされていく宏樹の感受性の高さは、十全に張られた彼の内面的振幅に関わる伏線が、ラストシークエンスでの「屋上の炸裂」での嗚咽で回収されることで検証し得る構成力の、出色の精妙さを際立たせていた。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/桐島、部活やめるってよ(‘12) 吉田大八 <「現代の青春」の空気感を鋭く切り取った青春ドラマの大傑作> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/05/12.html