映画「普通の人々」に見る、「PTSDの底知れない破壊力」

イメージ 11  この世に厳然としてある、どうしても、なるようにしかならない人生の危機



普通の人々の日常性は、概して退屈である。

 そのときは極端に緊張し、膨大なストレスを溜め、逃げ出したくなった人生の日々のように見えたとしても、後になってそれを思い起こすと、「何であのとき、あんなことで悩んでいたのか」と回顧されることも決して少なくない。

 もっと前向きな人なら、「あの体験があったからこそ、今の自分がある」と振り返ることもあるだろう。

しかし、それは全て後から回顧して言えることであって、実際は波乱万丈と言わなくても、常識的には破綻のない人生など存在しないのである。

 思うようにならない人生だからこそ、人は、それを少しでも改善しようと努めていく。

当然のことである。

人生が運命的に定まっていると考えている人でも、明日の時間の安全を絶対的に保証してくれる人生など存在しようがないのだ。

未知の時間を抉(こ)じ開けていくからこそ、人生は面白いとも言えるのだろう。

 では、その退屈極まる日常性の中に非日常の破壊的襲来があったとき、人はそれとどう向き合い、対峙し、克服していけるのか。

 普通の人々が、普通の暮らしを、普通に続けているとき、そこに、その日常性を激烈に揺さぶるような非日常の破壊的襲来に対して、そこでのスーパーマン的解決のストーリーの展開はおよそ考えにくいだろう。

普通の人々の、ごく普通の観念やメンタル面の能力を超えてくる非日常の破壊力は、決して尋常なものではない。

普通の人々であるが故に、そこで思いっ切り狼狽し、切り裂かれ、定まっていた感情が存分に揺さぶられた果てに、その自我が、それまで殆ど疑うことなく日常性を継続していく可能性は困難であるか、或いは、しばしば不可能であると言っていい。

 無残に剥ぎ取られた自我は粉々に砕かれて、解体されてしまうかも知れない。

ここまでくれば危機であるだろう。

人生最大の危機であるかも知れない。

 こんな危機が人生に必ず襲来してくるとは言い切れないが、その可能性を否定できないところにこそ、思うようにならない人生の怖さがあるとも言えるのだ。

私事を書けば、自分なりの「認知的構え」=「仮想危機トレーニング」による態度形成を作ってきたつもりだが、それでも自分が交通事故に遭遇し、それによって脊髄損傷者になるという現実だけは確実に想定外だった。

そして、そのことで、身体の自由が奪われる人生を送ることになるイメージなど思いもよらなかったのだ。

 人生には、自分の努力とか、才能とかで突破できない事態がしばしば起こり得るのである。

どうしても、なるようにしかならない人生の危機というものが、この世に厳然としてあるのだ。
 
ここで私は、ロバート・レッドフォード監督の秀作・「普通の人々」(1980年製作)を想起する。

以下、「PTSDの底知れない破壊力」によって、普通の家族の日常性が崩壊していくプロセスを精緻に描いた、この名画フォローすることで、どうしても、なるようにしかならない人生の危機の一つの様態について考えてみたい。



2  「3人+『不在なる1人』の家族」の際どい精神的風景の中で



平穏な日常生活の日々を普通に繋ぐ中流階級の、その普通の四人家族に、全く想像だにできない不幸な事態が惹起した。

長男の事故死である。

更に追い打ちをかけるように起こった、次男の自殺未遂と精神科への入院。

次男・コンラッド少年は、長男の水難事故に深く関わっていて、そのトラウマに懊悩していのである。

この不幸な事態の襲来によって、愛情と信頼関係によって堅固に結ばれていたはずの家族が、根柢から揺動していく。

その危機に対して、家族三人の受容の仕方は三者三様であるが、それぞれの成員の心奥に深く澱む、見えにくい辺りだけは明瞭に異なっていた。
父の場合は、「失ってはならないものを、失ったときの辛さ」であるが、母の場合は、「決して失ってはならないものを、奪われたときの辛さ」である。

 そして、コンラッド少年の場合は、「将来を嘱望されていた者の死の現場に立ち会って、その死を自らの力で防ぎ切れなかった辛さ」である。

 辛さの感情は、当然、悲哀の感情を随伴する。

 まず父の場合は、「記憶の闇に流せない深い悲哀」であるが、母の場合は、「記憶の闇の奥深くに絶対に流せない、許し難き感情を内包した悲哀」である。

 そして同様に、コンラッド少年の場合は、「永久に記憶の尖りに張り付いて消えることがないと信じる、自罰性を本質とする贖罪観念を内包した悲哀」である。


日常的には空洞感を潜在化させている、「3人+『不在なる1人』の家族」の際どい精神的風景の中で、母は息子を拒み、しばしば不必要なほど攻撃的になるのだ。

 何より辛いのは、息子だけが、二重の攻撃性に晒されてしまっていたという現実の重さである。

 この圧倒的なまでに非武装の自我をヒットする心理的暴力によって、息子の精神は次第に復元力を失い、遂には解体の危機に晒されるに至ったのである。

 自殺の未遂者は、大抵、繰り返されると言う。

そんな危機のボーダーに浮遊する、コンラッド少年の自我の被弾の深刻な様態は、紛う方なく、瀕死の体にあった。

 フラッシュバックを現象化するギリギリのところで何とか抑えていながらも、常に揺動して止まない少年の魂の危機を救ったのは、一体、何だったのか。

 それは簡単に答えられるようで、実はとても難しい。 
 
 私はそれを、こんな風に考えてみた。

 どうしても、何かを吐き出さざるを得ない内的状況があって、それを吐き出したら楽になるかも知れないという、追いつめられた者がしばしば現出する、縋り付きたくなるような思いがあった。

 そして、それを今、吐き出さなければ危ないと感じた断崖の際(きわ)で、遂にそれを吐き出した。
吐き出すに至ったときの対象人格は、少年が通う精神科医だった。

そういう事態を可能にした環境が彼を救い、その環境に、半ば本能行動的に身を託した純なる魂が、そこにあった。

 その魂は、そうしなければ、自らが呆気なく解体される恐怖の前で立ち竦みながらも、その内側に、なお力を持ち得ていた少年の自我が、明らかに〈生〉の方向に振れたのである。
 
 
(新・心の風景  映画「普通の人々」に見る、「PTSDの底知れない破壊力」)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2013/12/blog-post.html