1 「メデイアの加害者性」を剔抉した、「基本・反戦映画」の鮮度の高さ
この映画は、たとえ通州事件(1937年7月)があったにせよ、侵略戦争としての日中戦争ではなく、帝国主義間戦争(市場再分割戦争)としての太平洋戦争に焦点を当て、その戦争に対して、冷厳なリアリズムで反対する者がいても止められなかった、無謀な戦争の推進力になったものの「真実」を見つめていくことで、良かれ悪しかれ、「誰よりも、戦争に反対した男がいた。」というキャッチコピーのうちに鮮明に印象誘導させ、特化させた物語である。
冷厳なリアリズムで反対する者=「誰よりも戦争に反対した男」の名は、言うまでもなく山本五十六。
「こと、こに至っても、海軍は三国同盟に反対を貫かれる訳ですか?」
「ええ、勿論です」
「理由は、やはりアメリカですか?」
「ドイツと手を組めば、あの国は黙っていませんからね」
「アメリカです」
「アメリカです」
「その上、自国は植民地を広げているくせに、大陸における我が国の正当な権益を認めようとしない」
「その通りです」
「なぜ、そんな国を討ち払おうとしないのです」
「討ち払うことができますか?」
「確かに。船の建造能力は、我が国の4.5倍。飛行機は6倍。車は100倍。石油に至っては700倍。日本の一年分の消費量の僅か半日で生産する。国力で言えば、アメリカは今、日本の10倍でしょう」
「正しいご認識だ」
「しかし日露戦役では、同じ国力の10倍のロシアに勝ったではないですか」
「当時のロシアは革命の最中でした。優に何とか、あの一戦の勝利をもって講和に持ち込めた。だが、今や戦は、国を懸けての総力戦です。どちらかが焦土と化すまで終わりませんよ」
「だからアメリカの顔色を窺って、大人しくしてろ、と」
「いいえ。我が国の立場を主張すべきところは堂々と主張する。臆することなく相手国と向き合う。それは、外交によって為されるべきだと申し上げておるんです」
「確かにその通りです。そして、その外交の最終手段として戦争がある。違いますか?」
「いいですか、宗像さん。いったん、ことを構えたら、後戻りできないのが戦です。熟慮することなく突き進み、この国に災禍を招いてはならない」
「だから、耐え忍べとおっしゃるんですか?この暗澹たる閉塞感に国民が押し潰されても構わない、と」
「その閉塞感とやらを、むしろ煽っているのはあなた方ではないのですか?」
「我々新聞は、ただ世論を代弁しているだけですが」
「その世論とは、果たして国民の真の声なのでしょうか」
この会話には、「世論の代弁者」という堂々とした看板を立てることで、国民に戦争を煽っていった、当時のメデイアの状況性が端的に示されている。
無謀な戦争の強力な推進力になった「メデイアの加害者性」が、あまりに分りやすい構図として提示されているのだ。
これは最初から、東京日報の架空の記者・真藤(しんどう)が映画のナビゲーターとなって、物語が進行することで判然としている。
真藤は、時には、山本五十六の内面に侵入し、その心情をも忖度し、観る者に、「誰よりも戦争に反対した男」というメッセージを鮮明に印象誘導させていく。
真藤の煩悶が山本五十六の煩悶と溶融し、同様に、架空の人物である東京日報社の主幹・宗像を記号化させ、「無謀な戦争の強力な推進力になったメデイア」を弾劾するという、物語の構造がそこにある。
真藤のラストナレーションに収斂されていく、この辺の物語の構造が新鮮に見えるのは、ここまで「メデイアの加害者性」を剔抉(てっけつ)した、「基本・反戦映画」が製作されたのが初めてであるという印象を持たせたからだろう。
ここで簡単に、この国のマスメディアの戦争責任についてまとめておきたい。
元々、1909年に公布・施行された「新聞紙法」が新聞取り締まりの中枢にあり、その中でも、第23条における「安寧秩序を乱したり風俗を害すると認められる新聞の発売・頒布禁止」と、「発行人・編集人の処罰」を規定した第41条は、官憲の恣意的な解釈如何で発動されるので脅威となっていた。
それにも拘わらず、政府当局による言論統制事件として著名な「白虹事件」(注3)を除けば、大正デモクラシーの自由主義的な風潮の影響が大きかった大正時代までは、露骨な言論統制が行われる機会は少なかったのは事実。
関東軍作戦主任参謀・石原莞爾と、関東軍高級参謀・板垣征四郎の主導による謀略によって起こった、柳条湖の鉄道爆破事件(日本国民には張学良らの犯行とされていた)に端を発する満州事変以降、軍に対する批判記事が顕著に影を潜め、日中戦争の勃発と、それに続く国家総動員法の制定は、その澱んだ空気を決定づけることになった。
国家総動員法16条に基づき制定された、悪名高い「新聞事業令」(昭和16年)における一県一紙制の導入による新聞統制は、唯一の放送機関・社団法人日本放送協会(1950年にNHK)の報道をも包括し、同年の国防保安法(国家機密の漏洩に死刑の適用)の制定において、この国の言論統制法規の極点の様相を示していく。
まるで開き直ったかのように、軍部に迎合した挙句、戦争報道の連射で世論を煽り捲り、対外強硬論を連日のように日米開戦を主張し、大本営(陸軍参謀本部+海軍軍令部)の発表を検証なしに報道し続けていったのである。
その背景には、激しい「号外戦」に象徴される新聞界の過当競争の中での、サバイバル戦の爛れ切った状況があったにせよ、この負の連鎖が戦争の長期化を招来したとも言えるのだ。
以上は、映画の中で描かれた通りである。
「負ける戦争はしない」
ごく普通のサイズの、このリアリズムである。
だから、「負ける戦争」に反対する。
従って、「負ける戦争」のテールリスク(もし起こったら、甚大な損失をもたらすリスク)のある、日独伊三国同盟(1940年9月に締結)に対して頑強に反対したことで、右翼テロの恫喝もあった。
「三国同盟締結にご賛同頂きたいと思います」
以下、滔々(とうとう)と持論を展開する、山本五十六の弁舌の要諦である。
「三国同盟締結となれば、アメリカと衝突する危険は増すことになりますが、現状では、我々の航空兵力の不足は明らかです。万が一、対米戦となった場合、戦闘機1000機、陸上爆撃機1000機、即ち、現在の2倍の航空機が必要不可欠となります。しかし我が国は、鉄・石油など、その生産資源の大半をアメリカに頼っており、今、ドイツとの同盟を結べば、必然的にそれら全てを失うことになります。ならば、その不足を補うために、どのような計画変更をやられたのか、その点をお聞かせ頂きたい」
「今後、各部内での検討を待つということで・・・」
この時の及川大臣の答えである。
「大臣、それでは答えになっておりません。対米戦が可能であると言う、その根拠をお聞かせ願いたい」
「色々、ご意見もありましょうが、ここは、大方のご意見が賛成と言う次第ですから・・・」
山本の憤怒の表情がアップで捕捉された合同会議が、こうして閉じていく。
因みに、事実について書いておけば、この合同会議によって三国同盟締結に傾いた海軍の総論が収束されるに至るが、実際は、会議直前に、及川古志郎海軍大臣から機先を制されて、山本五十六は会議の本番の場で、終始、無言の状態であったと言われている。
諦念していたからだと思われる。
だからこのシーンは、山本の持論を強調するエピソードとして映像提示されたという風に解釈しておこう。
それにしても、リピートされる山本の持論の強調のシーンは、その意図が了解できるものの、映像マターとして、些かくど過ぎなかったか。
ともあれ、重要な全ての判断に根拠を求める山本の合理主義(注4)は、この当時と言わず、日本人が苦手とする思考回路の構造である。
増して、テールリスクの高い状況下での曖昧さは、国の危急存亡の行方を決めてしまうが故に、とうてい蔑ろ(ないがしろ)にできようがないだろう。
学ぶべき合理主義の態度形成である。
ここで、変転著しい時代状況の推移を追っていこう。
ヨーロッパ情勢が決定的にが動いていく、1939年のこと。
8月。独ソ不可侵条約。秘密議定書・第2条には、独ソ両国によるポーランドへの侵攻(分割占領)が締結される。この不可侵条約は、当時、ドイツと同盟交渉中であった日本の政界を震撼させ、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」(平沼騏一郎首相)と言わしめて、総辞職に追い込まれるに至る。(1941年6月に、ナチス・ドイツ軍はソ連侵攻を開始し、条約は破棄された結果、独ソ戦に突入)。
いよいよ、対米戦を不可避とするこの状況下で、山本五十六は海軍参謀会議で語っていた。
「刺し違えてでも、敵の全てを叩く。これがもし失敗すれば、この国は滅びる」
米を叩き潰した後、早期講和に持っていく。
この山本の持論は、一貫して変わらなかったのである。