現代最高の映像作家 ― ミヒャエル・ハネケ監督の世界

イメージ 11  人間洞察力の凄みを見せるハネケ映画の真骨頂
 
 
 
 一人の女がいる。
 
 女の名はアンヌ。
 
多忙を極める女優である。
 
女優業で多忙を極めているアンヌが、アラブ系の二人の移民の若者に絡まれる恐怖体験についてのシーンがある。
 
車両の一番端に座っているアンヌに、この二人の若者は執拗に絡んできた。
 
「トップモデルだろ?こんな地下鉄に乗ってるなんて。ところでお嬢さん、チンピラと話す?社交界の超美人だろ。反応ねえな。美人で横柄なんで疲れるんだろう」
 
二人の中でリーダーらしい男が、そんな厭味を言いながら、アンヌの隣りの席に坐り込んでいく。
 
心中で騒ぐ恐怖感を、できるだけ表情に出さないように努めていたアンヌは、彼らを無視するようにして、車両の反対方向の端の席に座った。
 
ところが、その男は他の婦人をからかいながら、「可愛いアラブが愛を求めている。他の車両に移る?俺が臭うからか?」などと言って、アンヌの座席の横につけてきた。
 
「俺が臭うからか?」という言辞には、明らかに、自分がいつも嘲罵(ちょうば)を浴びせられていることの憤怒の感情が張り付いているのだろう。
 
普段から溜め込んでいたストレスを吐き出す男が支配する車両には、多くのフランス人や移民たちが席を埋めているが、このような時に、いつもそうであるように、自分に矛先を向けられないようにして、彼らは無言の状態を続けている。
 
一瞥して、男との距離を確認する人々。
 
車両内には、アルピニスト風の若くて大柄な青年もいるが、無論、彼は何もしない。
 
できないのだ。
 
この状況で重要なのは、相手が複数であるという事実である。
 
複数を相手に喧嘩するリスクを考えれば、ただ、見て見ぬ振りをして、事態を遣り過ごすしかないだろう。
 
いや、相手が複数であろうと単数であろうと、それが、普通の人間の普通の反応であるからだ。
 
相対的に豊かになり、限りなく自由の幅を広げ、私権が拡大的に定着するような社会になれば、大抵、どこの国でも価値観が相対化し、「他者の不幸」に目を瞑る現象が一般化するのである。
 
それは、人の心が「荒涼化」し、「優しさ」を失ったことを意味しないのだ。
 
本質的なことを言えば、この類いの現象は、「他者の不幸」=「自分の不幸」という、共同体社会の縛り(倫理感覚)が希薄になったことの必然的現象であり、寧ろ、人の心は、より繊細になり、それ故に、かつて平気で無視してきたような末梢的な「事件」に対して、過剰に「体感治安」が敏感になっていくというのが正解である。
 
思えば我が国で、2014年1月に起こった「川崎容疑者逃走事件」(集団強姦などの容疑で逮捕された男が、検察庁から逃走した事件)のように、連日、「劇場型報道」の様相を呈することで、近隣住民が異常に怯える現象を引き起こしたが、これは、確率論的に言えば、「自分の不幸」に繋がる危険性が極端に低いにも拘わらず、人の心が必要以上に反応してしまう事例の典型であると言っていい。
 
人の心が「優しさ」を失った時代という決めつけが、如何に乱暴な議論であるか、既に自明の理である。
 
―― アンヌをヒロインにする物語を追っていこう。
 
車両内の乗客らが驚嘆する事件が惹起した。
 
再び、アンヌの隣りの席に無言で座っていたチンピラは、次の駅で止まった瞬間、いきなりアンナの顔に唾を吐いて、下車しようとしたのだ。
 
その時、一人のアラブ系の初老の男性が、チンピラの背後を足で蹴飛ばした。
 
一部始終を聞いていたこの初老の男性は、アンヌが通路を隔てた自分の横の席に座ったことで、黙って見過ごすことができなかったのだろう。
 
彼は、自分の眼鏡をアンヌに預かってもらった上で、ゆくり立ち上がり、チンピラに「恥を知れ!」と一喝したのである。(冒頭の画像)
 
アラブ人としての誇りを逆撫でする、この一喝に本気度を感じたのか、「何をしやがる!」と言うだけで、下車できなかったそのチンピラは、再び、アンヌの傍らに立って、何もできずに次の駅まで待っていた。
 
チンピラが何もできなかったのは、相手が同じアラブ系であったからというよりも、一喝する前の初老の男性の落ち着き払った行動にある。
 
下車できなかったチンピラの前にゆくり立ち上がった初老の男性が、眼鏡を外し、それを傍らのアンヌに渡す行為は、その直後の一喝に繋がることで、チンピラの攻撃性を削り取ってしまったのである
 
この辺りの人間洞察力の凄みを見せる映像提示こそ、ハネケ映画の真骨頂である
 
初老の男性が落ち着き払って眼鏡を外した瞬間に、もう、〈状況〉を支配する者の決定的変換が成就しているのだ。
 
この予想だにしない出来事の後の沈黙は、完全に澱んだ空気を支配した初老の男性の、その圧倒的な存在感の大きさを際立たせる効果が生み出したものだった。
 
電車が駅に着いた瞬間、降車際に、そのチンピラは、「覚悟しておけ、また会おうぜ」と捨て台詞を残した直後、突然、「ワッ!」と大声を上げて、車両内に座っている乗客たちの度肝を脱ぎ、笑いながら下車していった。
 
 「覚悟しておけ」という捨て台詞が、チンピラの敗北宣言であるのは言うまでもない。
 
一方、初老の男性に救われたアンヌは、初老の男性に「ありがとう」と言うのがやっとで、すすり泣くだけだった。
 
 私は、この何気ないシーンに驚嘆させられた。
 
 アンヌを演じた名女優・ジュリエット・ビノシュの演技力が、「プロの女優」として圧巻だったのは織り込み済みだが、それ以上に、「描写のリアリズム」を完璧に表現し切ったハネケ監督の演出力に感嘆したのである。
 
このような異常な事態に遭遇した二人、即ち、初老の男性とアンヌとの間に全く会話がないのだ。
 
元々、見知らぬ他人であっても、異常な事態に関与した者同士が会話を繋ぐが自然であると考えるのは、邦画やハリウッドの限定的世界であると言っていい。
 
こんなとき、不自然な会話を繋げないのが、人間の心理の自然の発露であるだろう。
 
なぜなら、アンヌの心は、一方的に被弾された者の恐怖と屈辱の感情に塗れていて、とうてい、初老の男性との会話を繋ぐ精神状況ではなかったのである。
 
これを、私は「アンヌの地下鉄体験」と呼びたい。
 
この「アンヌの地下鉄体験」を精緻に描くこの〈状況〉を、「傍観者効果」の心理学で説明することが可能である。
 
即ち、「責任分散」(他者と物理的に近接することで責任が分散される)と、「聴衆抑制」(皆の前で恥をかきたくない)の心理学である
 
この「傍観者効果」の心理学に、何をするか分らないと思わせる、複数のアラブ系のチンピラに対する恐怖感が張り付いていて、それで、多くの場合、自分に害を及ぶ危険性を回避しようと動くのである
 
この現象は、どこの国でも、いつの時代でも普遍的に起こり得るものだが、この映画では、白人社会の中で差別されている移民に対する、反転的な恐怖感が強調されていている点が刮目に値する。
 
いつもながら、その辺りの乗客心理を巧みに描き切った、ハネケ監督の人間洞察力は出色だった。
 
 
 
 2  〈状況〉と〈行動〉を冷厳に描き出す映像作家
 
 
 
 
些かくどく言及したが、以上の「アンヌの地下鉄体験」を描く映画のタイトルは、「コード・アンノウン」(2000年製作)。
 
ミヒャエル・ハネケ監督がフランス映画界に進出した記念碑的な作品であり、「感情の氷河化」と言われる、オーストリア時代の初期三部作(「セブンス・コンチネント」、「ベニーズ・ビデオ」、「71フラグメンツ」)とは切れて、「移民」などの社会性を有し、「コミュニケーションの不可能性」(ハネケ監督の言葉)と言うよりも、「コミュニケーションの困難さ」をテーマにした作品である。
 
 私が敢えて問題にしたいのは、「アンヌの地下鉄体験」に典型的に表れているように、ハネケ監督の本来の精緻な観察力・人間洞察力によって、特定の〈状況〉に置かれた人間心理の奥深い辺りを描き切っているという一点である。
 
〈状況〉と〈行動〉を冷厳に描き出すこと。
 
これが、ハネケ映画の凄みであり、彼の映像宇宙の基本骨格を支えていると言っていい。
 
特定の〈状況〉に捕捉された人間の〈行動〉を描くことで、人間心理の「見えない部分」を炙り出す。
 
重要なのは、その「見えない部分」を台詞で説明しないが故に、「見えない部分」への解釈の困難さだけが残される。
 
これは、「ビジネス」であるが故に、全てを説明してしまうハリウッドや、多くの癒し系の邦画に馴致している観客には、相当程度、不愉快だろう。
 
しかし、ミヒャエル・ハネケ監督の本意ではない。
 
観客を不愉快にさせるために、映画を作る監督など存在する訳がないのだ。
 
私の最も好きな「タイム・オブ・ザ・ウルフ」(2003年製作)を観れば、彼がヒューマニズムに拠って立つ映像作家であることを確認し得るだろう。
 
「私は、すべての作品において“ヒューマニスト”になろうと努力しています。芸術に真剣に立ち向かおうとするならば、そうするしかない。それが必要不可欠な最低条件です。ヒューマニズムなき芸術は存在しません。それどころが、芸術家の最も深遠なる存在理由です。意思の疎通こそ人間的で、それを拒むのはテロリストであり、暴力を生むのです」
 
ハネケ監督の言葉である。
 
ヒューマニズムとは、人間の様々な事象に深い関心を持ち、それを包括的に受容し、自らを囲繞する〈状況〉から問題意識を抽出することによって、限りなく発展的に自己運動を繋いでいくこと。
 
ヒューマニズムについての私流の定義である。
 
〈状況〉から抽出した問題意識によって、自己運動を繋いでいく〈行動〉の総体。
 
私は、〈私の状況〉から問題意識を抽出し、それを〈行動〉に結んでいく。
 
だから、脊損者の私ができ得る唯一の〈行動〉を結ぶ。
 
それが、こんな表現行為である。
 
ハネケ映画もまた、ハネケ監督自身の問題意識を、映像という格好のアートのうちに表現行為を結ぶ。
 
そんなハネケ映画を貫流する基幹テーマを、観る者が思い思いに汲み取っていく。
 
ハネケ映画の「特異性」が、そこにある。
 
それは、これまで供給されてきた多くの映画作品群の杜撰さを照射させる、決定的役割を担うアートの独壇場の世界であるだろう
 
 
 
 
人生論的映画評論/現代最高の映像作家 ― ミヒャエル・ハネケ監督の世界)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/