1 “パンとぶどう酒のマルセリーノ”
自我のルーツを切実に求める純朴な幼児・マルセリーノの思いを、その幼児から無償の援助行動を受ける「神の子・イエス」が柔和に吸収し、世俗と天上を融合させ、絶対安寧の世界に送り届けることで、限りなく、理念系の濃度の高い作品に昇華させた一級の「宗教的ファンタジー」 ―― それが「汚れなき悪戯」である。
自我のルーツとは、言うまでもなく、未だその相貌を視認できないが故に、どこまでも「永遠の美」というイメージに結ばれた、幼児の産みの親のこと。
「永遠の美」というイメージで結ばれた母親への思いが強化されていくほど、マルセリーノの中で、そこだけは空洞化された、心の隙間を埋める思いだけが置き去りにされていく。
その契機となった、一つの象徴的エピソード。
それは、見知らぬ農婦との偶然の出会いであった。
「ここの子?」
「そうだよ。生まれてすぐ、門の前で捨てられてたんだ」
「それで?」
「神父さんが見つけてくれた」
「お父さんは?」
「いるよ。12人」
「12人も。お母さんは?」
「一人もいない。おばさんは、お母さん?」
「息子が二人。上の子はあなたくらい」
そう言って、その農婦は「マヌエル!マヌエル!」と大声で呼び、マルセリーノと会わせようとするが、農婦の主人から呼び声がかかり、この会話は閉じていった。
マルセリーノの寂しさだけが、そこに置き去りにされたのである。
マルセリーノの心は、若く美しい見知らぬ農婦との出会いによって、「永遠の美」として生き続ける心地良き形象を具現化していく事態の到来への願望が、いよいよ強化されていく。
マルセリーノの心に生き続ける心地良き形象が、具現化されていく閉鎖系のスポット。
そのスポットは、マルセリーノの「父」である、12人の修道士(使徒)が信仰と生活の拠点の内側に息づいていた。
マヌエルを架空の友として、無邪気に遊ぶマルセリーノにとって、物理的に近接することを禁じられた、二階に棲む「巨人」との宿命的な出会いだった。
怖いもの見たさの心理に張り付く膨らみ切った好奇心が、「巨人」への「恐怖突入」を駆動させることができたのは、仮想の友・マヌエルとの「秘密の共有」の安心感の後押しがあったからである。
その「巨人」の正体こそ、磔にされた「神の子・イエス」の彫像だった。
痛身に耐え、空腹の「巨人」への同情心から、パンとワインを運ぶという、無償の援助行動を繋いでいくマルセリーノ。
まもなく、マルセリーノを前にして、「巨人」である彫像の腕が動き、会話を繋ぐ特別な時間が静かに流れていく。
「静かだな。何を考えている?」と「巨人」。
「あなたのお母さんはどこ?」とマルセリーノ。
「天国だよ」
「“お母さん”って、どんな人?」
「常に与え続ける人だ」
「何を?」
「何もかも、すべてを。子供のために犠牲にする。年を取ってシワが寄るまで」
「醜いの?」
「少しも醜くない。母親は永遠に美しい」
「お母さんを愛してる?」
「心から」
「僕の方が愛してる」
今や、マヌエルを必要としない闇のスポットは、「巨人」との「秘密の共有」を占有するマルセリーノの「恐怖突入」を無化して、心地良き悦楽に浸る特化された空間と化していく。
マルセリーノが占有する「秘密の共有」の時間は、いつしか、マルセリーノの養育係でもある“台所さん”(フランシスコ修道士)に知られるに至り、「二人」の会話が立ち聞きされるのだ。
(人生論的映画評論・続/汚れなき悪戯(‘55) ラディスラオ・ヴァホダ <理念系の濃度の高い作品に昇華させた一級の「宗教的ファンタジー」>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/05/55.html