1 カリスマ性とは無縁な、一人の老人の裸形の相貌を描き切った人間ドラマ
「聖人」化された人格者の代名詞のような男の、その最晩年の心の風景の澱みと、その男への愛憎相半ばする複雑な女の感情の振幅を、短絡的な人間理解の皮相浅薄で、深みのない筆致で撮り逃げしなかった、圧倒的な気迫に満ちた演出と、それに応えたプロの俳優の迫真の演技。
見事だったと言う外にない。
正直言って、本作の思いがけない完成度の高さに、只々、驚かされたという思いで一杯である。
群を抜いて強力な一級の名画が誕生したことに、私は称賛を惜しまない。
そんな一代の傑作のこと。
ここには、4種類の人間が登場する。
① 理想を「主義」にしつつも、なお残る、愛憎相半ばする人間の複雑な感情の氾濫の中で迷い、煩悶する男。(トルストイ)
② そして、理想を「主義」とすることに全く無縁でありながらも、男との半世紀近い共存の中で培った人間的感情の中で揺れ、それを捨て切れない女。(ソフィヤ)
③ 更に、そんな男と女に最近接することで、人間をカリスマ化することに疑問を持った分だけ、自己を相対化できた若者。(ワレンチン)
④ そして最後に、理想を「主義」とする男を偶像化し、絶対化することによって、それが自己目的化された「主義」に殉じる男。(チェルトコフ)
以上についての言及は、適宜に後述する。
ここでは、「高等世俗」の現実と「主義」の板挟みで身動きできない、最晩年のトルストイの「煩悶」の日々を切り取った映画をフォローしていく。
時代は1910年。
背景はヤースナヤ・ポリャーナ。
トルストイの生地であり、生涯の大半を過ごした居宅である。
その運動のリーダーは、モスクワのトルストイ協会本部を指揮するチェルトコフ。
トルストイをして、「私の親友だ」と言わしめるほどに、絶大な信頼を得ている男だが、今は秘密警察に監視されているので、チェリャチンスクに戻れず、地団駄を踏んでいた。
そんなチェルトコフにとって、何より不安なのが伯爵夫人・ソフィヤの存在。
その理由は、「財産に執着し、我々の運動を目の敵にする」(チェルトコフの言葉)というもの。
「我々の最大の敵は伯爵夫人」
チェルトコフの言葉である。
その「最大の敵」の動向を探る目的で、チェルトコフが採用した青年こそ、本作の中で客観的視座をもって、最晩年のトルストイ夫妻に最近接し、時には、その内面に侵入することで、観る者の感情移入を誘(いざな)う役割を担うワレンチンである。
思うに、この映画の成功は、ワレンチンの視線を介在させて、理想を「主義」にしつつも、なお残る、愛憎相半ばする人間の複雑な感情の氾濫の中で迷い、煩悶する男、即ち、トルストイの生身の身体と精神の揺動を描き切ったところにあると言える。
そして、理想を「主義」とすることに全く無縁でありながらも、男との半世紀近い共存の中で培った人間的感情の中で揺れ、それを捨て切れない女、即ち、ソフィヤの内面的風景を精緻に描き切ることで、「悪妻」という偏頗(へんば)なラベリングから解放したところにもあると言っていい。
その晩年の断片を切り取った、トルストイ夫妻に最近接した短い時間の濃密度。
その短い時間の濃密な絡みの中から見えてくる、「神様」の人生のリアリティは、トルストイの個人秘書を希望する若者が、チェルトコフに言い放った、「理想を追求し、魂を清めたい」という理想と乖離して、およそカリスマ性とは無縁な一人の老人の裸形の相貌だったこと。
この辺りを精緻に描き切った、本作の人間ドラマとしての完成度の高さは出色だった。
そんなワレンチンの仕事の内実は、ヤースナヤ・ポリャーナでの出来事、とりわけ、伯爵夫人・ソフィヤの発言記録を採取すること。
かくて、「トルストイ・コミューン」の拠点・チェリャチンスクを経由してのワレンチンの、「神様」との出会いを前にして心踊らせる旅が開かれていく。
そのヤースナヤ・ポリャーナでは、チェルトコフが言うように、ここ数年間に及ぶトルストイの理想主義への傾倒への不満から、ソフィヤとの夫婦関係に亀裂が入っていて、最晩年のトルストイの「煩悶」の日々が常態化されていた。
一切は、トルストイの新しい遺書の存在を巡る確執だったのである。
2 「世俗」の営為を、「人類愛」の名によって軽侮する行為への相対化の視線
「神様」と出会った当初のワレンチンは、緊張で胸の高鳴りを抑えられず、くしゃみをするばかり。
鼻粘膜にある副交感神経(自律神経)が緊張すると、興奮のあまりくしゃみが出やすいと言われるが、ワレンチンもまた、このタイプの人間なのだろう。
言うまでもなく、ワレンチンのくしゃみの原因は、「理想を追求し、魂を清めたい」という、「神様」に対するカリスマ性が、ワレンチンの若い自我にべったりと張り付いていたからである。
彼もまた、理想を「主義」とする男を偶像化し、絶対化する迷妄から解放されていなかったのだ。
以下、理想を「主義」とする男への偶像化が、男の恋愛譚を聞かされることで、イメージの違和感が最初に生まれたエピソード。
「先生は書いておられます。肉体は本質ではなく、幻影にすぎないと」
トルストイの若き日の恋愛経験を聞かされた、ワレンチンの発問である。
この発問に対するトルストイの反応は、あっさりとしたものだった。
「戯言だ。君はどう思う?君の意見は?」
「分りません」
「私もだ」
トルストイに対するワレンチンの当惑の本質は、「性愛」を穢れたものと信じ切ってきたワレンチンの児戯性を象徴するものだが、若くして(30代初め)独自の農奴解放を試みたり、領地に学校を設立して、農民の子弟教育に熱心に向かったり、美しく聡明な、18歳のソフィアに惚れ抜いて結婚した後も、自らの莫大な財産を貧困層への援助に費したり、等々の行為を知る限り、トルストイ=「生きる聖人」の如く神聖化されてしまうのも頷けなくもない。
「あの愛を見たまえ。子供たちを祝福するキリストのようだ」
しかし、「性愛」を穢れたものと考える、ワレンチンの児戯性が崩壊するのも早かった。
チェリャチンスクの「トルストイ・コミューン」で奉仕活動するマーシャとの出会いと、その後の呆気ないほどの「性愛」への移行で、すっかり、マーシャの蠱惑(こわく)的な姿態の虜になってしまうワレンチン。
「性愛」を穢れたものと考えて、内側に封印した分だけ、「性愛」への耽溺も必至だったのだろう。
それを、若気の至りという用語で説明することも可能である。
「あなたは、あのとき、規則も神様も忘れてた」
「そんな単純じゃ・・・」
自由恋愛の王道を生きるかのようなマーシャに、痛いところを衝かれたワレンチンには反応する術がない。
「単純なことよ。ずっと、男と女がしていること。過去も未来もない。体に触れ合って、私たちの間に、親密な何かが芽生えた。それは本物よ。それが何に対する裏切りだって言うの?でも、怖いのよね。頭でっかちさん」
「今の僕には、輝く未来が見える。君ほど強い人間はいない」
マーシャとの「性愛」を通じて、「肉体は本質ではなく、幻影にすぎないと」と信じていたワレンチンは大きく変容していく。
(人生論的映画評論・続/終着駅 トルストイ最後の旅(‘09) マイケル・ホフマン <「不完全な男と女」が呼吸を繋ぐ人生の晩年を活写した一級の名画>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/06/09.html