めまい(‘58) アルフレッド・ヒッチコック <「サプライズ」に振れずに、「サスペンス」を選択した構成力の成就>

イメージ 11  恐怖のルーツを突き抜けた反転的憎悪が、倒錯的に歪んだ愛の呪縛を解き放つ男の物語
 
 
 
 これは、反転的憎悪が恐怖のルーツを突き抜けた瞬間に、倒錯的に歪んだ愛の呪縛から解き放たれていく男の物語である。
 
 同時にそれは、消せない愛の残り火を駆動させた挙句、禁断のスポットに立たされることで、自壊する運命を免れなかった女の物語でもある。
 
 この男と女の捩れ切った愛の物語を、観客を騙すハリウッドお得意の、どんでん返しの「サプライズ」に全く振れることなく、一貫して、パラノイアに呪縛された男の心の風景に寄り添うことで、ヒッチコック流の極上の「サスペンス」にまで昇華させた逸品 ―― それが「めまい」だった。
 
 些か、乱暴な物語の展開の瑕疵を認めてもなお、男の心の不安感をシンボライズさせた、道路の凹凸が振動となって揺れるような、サンフランシスコの曲折的な海岸のドライブを映し出すカメラワークは、ヒッチコックしか撮れないと思わせる映像の訴求力をを高めていた。
 
 しかし、どんでん返しの「サプライズ」を捨てたばかりか、捩れ切った愛の風景を描き切った本作に対するハリウッドの評価は、当然ながら低かった。
 
この映画が、ヒッチコックの作品群の中でも高評価が与えられるに至ったのは、「カイエ・デュ・シネマ」に集う若き映画作家たちのトリビュートに因るところが多い。
 
かくて、どこまでも「映画的」な構成に終始したヒッチコック一代の傑作は、物語の内容とバランスを確保するような柔和なBGMと共に、毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばしながらも、多くの人に鑑賞され、絶賛を浴びてきたアメリカ映画史の経緯がある。
 
 
 
2  「サプライズ」に振れずに、「サスペンス」を選択した構成力の成就
 
 
 
男の名は、スコッティ・ファーガソン(以後、スコッティ)。
 
元刑事である。
 
未だ現役バリバリの刑事の職を辞任したのは、犯人を追跡中、高層ビルの屋上から同僚の刑事が転落するという現場を目の当たりにしたからである。
 
爾来、スコッティは、階段も満足に昇れないほどに高所恐怖症になってしまった。
 
彼の身を案ずる、かつてのガールフレンドであるミッジの前で、高所恐怖症を乗り越えて見せるというパフォーマンスをするが、事件のトラウマが惹起して、あえなく頓挫する。
 
これが、男の恐怖のルーツとなっていく。
 
眩暈(めまい)の恐怖。
 
それは、経験した者ではないと分らないかも知れない。
 
余談だが、私もまた、この恐怖にどれだけ悩み、苦しんだことか。
 
ガードレールクラッシュで、首の骨を3本折って入院した私は、電動ベッドの狭いペースの中で、右手足以外を全く動かせない生活を、約3カ月間続けた。
 
まもなく、首にコルセットを巻いた状態で、電動ベッドの角度を90°に上げて、車椅子に移動する訓練が開かれた。
 
看護士の手を借りることなく、車椅子に移動することが叶わなかったが、ベッドの上のリハビリの成果もあって、何とか、車椅子での移動が可能になった。
 
ところが、ある日、突然、今まで経験したことのないような眩暈に襲われた。
 
耳鼻科の診療を受けたが、「良性発作性頭位眩暈症」という病名を付与させられただけで、それで終わり。
 
私の眩暈は、いよいよひどくなる一方だった。
 
ベッドの中でも室内が回転するので、夕食以降は消灯する始末。
 
仮眠に逃げ込んでも、全く変わらないのだ。
 
この状況を解決するために、私が求めた手段は、耳鼻科に自律神経調整剤の処方を求めたこと。
 
そこで処方されたセルシンを飲んだことが幸いしたのか、あれほど悩んでいた問題は、一応解消されたが、器質障害によって平衡感覚を失った私の場合と違って、スコッティの    ケースは心因性の眩暈だから、その克服は、ある意味で「恐怖突入」以外にないのではないかと思われる。
 
しかし、スコッティの「恐怖突入」は、単に本人の自覚的行為によっては解消され得ないほどに重篤だった。
 
なぜなら、恐怖のルーツに広がっている甚大なトラウマには、同僚刑事の転落死と、愛する女性の転落死という、二重の対象喪失に因る罪責感が張り付いているからである。
 
 「重度のウツ病と罪責複合。女性の死は自分のせいだと責めている」
 
これは、精神病院に入院したスコッティの身を案ずるミッジに、担当医が言葉。
 
徹底的に自分の「犯罪性」を甚振(いたぶ)って止まない、「罪責複合観念」の虜になったスコッティを救う手立てのないミッジは、ここで物語から消えていく。
 
何も為し得ないからである。
 
この映画の成功の一つには、スコッティが、この恐怖のルーツを突き抜ける心理的推進力に、倒錯的に歪んだ愛の呪縛から解放されていく過程の中で、憎悪感情への反転的昇華の炸裂を据えたことにあると言っていい。
 
男の感情の強靭さが、恐怖のルーツを突き抜ける決定的契機と化したのだ。
 
この激甚な展開の着想が、「サプライズ」に振れずに、極上の「サスペンス」にまで昇華させたのである。
 
実は、原作とは切れ、真実を観客にだけ分るようにさせて、「サプライズ」に振れずに、「サスペンス」の本質に肉薄する構成を選択したという言及については、ヒッチコック自身が語っている。
 
些か長いが、物語の肝への言及なので引用する。
 
「第二部の冒頭でジェームズ・スチュアートがブルネットのジュディに出会ったときに、すぐもう、真実 ―― つまりジュディはマデリンと瓜のふたつの別の女なのではなくてマデリン自身に他ならぬこと ―― を観客にばらしてしまうことにした。ただし、観客にだけわかるようにして、主人公のジェームズ・スチュアートにはわからないようにしたわけだ。要するに、サスペンスかサプライズか、という基本的な問題に帰着するわけだ。ジェームズ・スチュアートは、最初、ジュディはマデリンなのだと思いこむ。ついで、彼はそうではない、そんなことはありえないのだ、ただ、ジュディが彼を喜ばせるために何もかもマデリンに似せているにすぎないのだと考えはじめる。しかし、観客のほうはひそかにこのトリック・ゲームについての真実を知らされているから、もしジュディが嘘をついていること、彼女がマデリンであることをジェームズ・スチュアートが知ったときには、どうなるのだろう、とドキドキしながら自間自答することからサスペンスが生まれてくる ―― というのが映画の発想の原点だ」(「ヒッチコック 映画術 トリュフォー山田宏一蓮實重彦訳 晶文社
 
観る者が、「ドキドキしながら自間自答することからサスペンスが生まれてくる ―― というのが映画の発想の原点」なのである。
 
日常と非日常を共存させることで、観る者に対して、心理的に最近接させる〈状況〉を作り出すという、ヒッチコック的サスペンスの特徴でもある説明に、もう、加えるべき何ものもないだろう。
 
 
 
3  性的倒錯の極点にまで引き摺りこんでいく「偏執狂の性的フェティシズム」の氾濫
 
 
 
物語を追っていく。
 
スコッティは、昔の友人のエルスターから、自殺願望を持つ妻の尾行を依頼され、断り切れずに引き受けた。
 
エルスターの美しき妻・マデリンの、挙動不審の行動を見張る日々の中で、彼女の曽祖母であり、夫に子供を奪われたショックで自殺した、カルロッタの所縁の場所を訪ねて、沈み込む人妻に目を離せなくなる。
 
マデリンの自殺未遂事件が起こったのは、そんな折だった。
 
ゴールデンゲートブリッジの朱色が鮮やかな畔で、水中へ身を投げたのである。
 
慌てて追い駆け、海に飛び込み、マデリンを救い出すスコッティ。
 
彼女を自宅に連れ帰り、必死に介抱する。
 
「身投げをしたキム・ノヴァクをジエームズ・スチュアートが救いあげ、彼のアパートに運びこむ。彼女は寝室のベッドに寝かされている。キャメラがパンしていく間に、台所に彼女の濡れた衣類が乾してあるのが見える。しだいに彼女は意識を取り戻す。それだけで、ひとことのせりふもなしに、彼が彼女の着ている物をぬがせ、彼女の裸を見たことをはっきりとわからせる」(前出)
 
これは、「エロチックなディテールは、すべてすばらしく魅惑的です」と感嘆したフランソワ・トリュフォーの言葉。
 
「ニットの下にブラジャーをしていない」(トリュフォー)という マデリンへの介抱を通して、加速的に、彼女の蠱惑(こわく)的な魅力の虜になっていくスコッティの変容が、このトリュフォーの言葉からも窺えるだろう。
 
男が女を意識する。
 
女も男を意識する。
 
そこから開かれる展開は、もう、約束された世界も同然だった。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/めまい(‘58) アルフレッド・ヒッチコック <「サプライズ」に振れずに、「サスペンス」を選択した構成力の成就>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/08/58.html