ふがいない僕は空を見た(‘12) タナダユキ <〈生誕〉への無限抱擁=「大いなる母性」のうちに収斂させていく手品の「生命線」>

イメージ 11  〈生誕〉への無限抱擁=「大いなる母性」のうちに収斂させていく手品の「生命線」
 
 
 
人間が普通に抱えている不幸や心の闇を大袈裟にデフォルメし、その部分だけを持つ者たちの、その部分だけをマキシマムに特化させ、些か映画的統合性が脆弱な物語のうちに切り結んだとしても、複層的に交叉する各人各様の感情の落差と、そのクラッシュによる氾濫が生み出す〈状況性〉の渦中でしか呼吸を繋げない〈人間〉の、リアルな生き様を精緻に活写することにはならない。
 
無論、絶えることなく連射された、様々に「不幸」・「不運」なる〈生〉の漂流の落とし所が、その〈生〉のルーツである、〈生誕〉への無限抱擁=「大いなる母性」のうちに収斂させていくという手品の駆使であったとしても、特段に問題がない。
 
その意味で、この映画は決して悪くない。
 
私の感懐を率直に述べれば、悪くはないが、幾つかの粗雑過ぎる箇所が目立っていたのも事実。
 
情緒的で、説明的過ぎる嫌いもある。
 
百万円と苦虫女」(2008年製作)が、ほんの少し良質なテレビドラマの範疇に収斂される一篇だとしたら、「ふがいない僕は空を見た」という作品の完成度の高さは、レイティングシステムでブロックされただけの、ほぼ良質なテレビドラマ以外ではなかった。
 
まさか、刺激的な絵柄と、幾つかの印象深い「決め台詞」や「情感系台詞」を随時にインサートすることで、束の間、飽きっぽい観客の求心力を保持し得ると舐めているほど愚昧であるとは思わないが、それにしても、どうしても以下の点が気になるのだ。
 
その詳細は後述するが、繰り返し、「非言語的表現」の提示によって登場人物の心象風景を雄弁に物語っているのに拘わらず、観る者の想像力の自在な営為に委ねることなく、却って、絵柄から滲み出るイメージを想像力に昇華させる営為を狭めてしまうような、殆ど不要な「情感系台詞」の連射が気になったのである。
 
それ故に、些か辛辣な批評になるが、それもまた、話題になった本篇について真剣に考え続けてきた者の、戯言めいた主観的言辞として受容してくれれば幸いである。
 
以下、そこで提示されたテーマ性に沿って批評していく。
 
前述した、〈生誕〉への無限抱擁=「大いなる母性」とは、言うまでもなく、主人公の高校生・卓巳の母である寿美子のこと。
 
息子の卓巳が、不埒にも、人妻の里美とのコスプレ・セックスの動画が流布されても、平然と受容する寿美子の無限抱擁の底力は、後述するが、「ひたむきな青春譚」を繋ぐ良太と共に、物語を決定的に駆動させていくフォーマットの内実において、本篇の中枢テーマを体現するから御座なりにできないのである。
 
「母性幻想」が根柢的に崩れた現在、それでも〈母性〉が大切な理由は、その「効能」が形成的・限定的なものであるが故に、それを守っていく環境整備が切に求められるからである。
 
〈性〉を〈生〉に昇華させるという中枢テーマの一つを描き切る集合的推進力が、最終的に、本篇で執拗に強調された「悪意」・「不幸」・「心の闇」・「虐待」など、ネガティブな〈生〉の一切を「母性幻想」に収斂させていくという、取っておきの手品を駆使した訳ではないだろうが、少なくとも、寿美子の存在記号化されている印象を拭えないのだ。
 
奈良時代から、この国で造像された「如意輪観世音菩薩」。
 
これが、熱心な助産師である寿美子の、記号化されたイメージに最も近い。
 
生きとし生けるものを救済し、「観音経」で説かれる「安産・子育」の菩薩である。
 
だから、彼女は決して息子を責めることがない。
 
責めなくとも、息子 レジリエンス(復元力)を信じているからだろう。
 
この母子の関係の密度の深さを示すエピソードがあった。
 
自己責任において自然分娩を自ら望みながら、最終的に病院の世話になる患者の妻の夫に、罵倒される寿美子。
 
 「子供に何かあったら、お前のせいだからな!」
 
 こんなアホな男の、悪意丸出しの台詞を平気で描くのは、全て、寿美子の「如意輪観世音菩薩」を際立たせるためと読解する以外にない。
 
 「自然分娩だなんて偉そうなことを言っておいて、最終的に病院の世話になっているようじゃね」
 
 この厭味の主は、そのときの病院の女性看護士。
 
 児童福祉法に定められる助産院(株式会社にあらず)は医療行為を目的としないので、医療機関との適宜な連携が求められている現実の中で、自然分娩の「事故」が全く起こらないという保証がないとしても、わざわざ、こんな「悪意」のカットを挿入する映画の過剰さに、どうしても馴染めないのだ。
 
「あたし、帝王切開なんて母親失格ね」
 
この嘆息の主は、自然分娩で我が子を産めなかった母親。
 
こういう事例は今でも残っているらしいが(義母から被弾されるケース)、殆ど払拭された観念である。
 
この映画の「悪意」の集合の言辞のアナクロ性に、ほとほと、うんざり気分になる。
 
この夜、相棒のみっちゃんに語った言葉は、寿美子が記号化されているからこそ、我慢して聞けるのである。
 
そうでなければ、「母性幻想」に収斂させていく、如何にも取って付けたような、厭味な「綺麗事言辞」のオンパレードになってしまうだろう。
 
いつものように、寿美子は穏やかに語っていく。
 
「みっちゃん、助産師ってね、元気に産まれてくる赤ん坊のために手助けをするだけじゃないのよ。病院に勤めていたときだって、思っている以上に子供は死ぬの。自分がどんなに手を尽くしても、産まれてきて、すぐ亡くなる赤ちゃんとかね。その冷たくて硬くなった体思い出すと、眠っていられないのね」
 
 「全身男前」のみっちゃんは、すかさず反応する。
 
 「でも、それは先生のせいじゃないです。それは、その子の寿命だと思います。だって、そう思わないと」
 
以下、物語の中枢テーマに振れる言葉が寿美子から返ってくるが、この台詞を、原田美枝子が語ると厭味に聞こえないのは、「全身女優」のプロ魂が憑依しているからなのか。
 
 「だとしたら、寿命だとして、じゃ何だって、その子たちは、その短い一生を過ごすためにこの世に産まれてくるの・・・ほんとに誰でもいいから、ああ、あの子たちの短い人生には、そういう意味があったんですかって、教えて、納得させて欲しいって思う」
 
この母の真剣な言葉を、卓巳が立ち聞きしている。
 
それを、どこかで意識して語る生活習慣があるから、この母の子は「大丈夫」なのだ。
 
母性が崩れていないのは、それを形成的に構築してきたからである。
 
だから、ダメ亭主と別れた後も、金をせびってくる男に、「これで最後にしてね」などと言って、金を渡す寿美子。
 
ダメな父を持っても、「如意輪観世音菩薩」の母の存在が、一時(いっとき)の情動で駆動する青春の、その浮遊感を体現する卓巳の自我の中枢を崩すことがなかったということだ。
 
その卓巳は、この直後、アメリカに行ったはずの、ドアに落書きだらけの里美の家に入り込み、別離の日の回想に耽る。
 
神社の前で嗚咽する卓巳
 
 このシーンはいい。
 
 中枢を持ち得ない青春の揺動が出口を求めて、地虫のように這い出していく心象風景が、余計な台詞なしに映像提示されていたからである。
 
 これが、ラストシーンのレジリエンスの体現と化すが、偶然、神社で母と出会うエピソードが、出口を求めて彷徨する青春を後押しする。
 
祈る母に、息子が尋ねる。
 
「何、祈ってんの?」
「子供のこと。勿論、あんたも。全部の子供。これから産まれてくる子も。産まれてこられなかった子も。生きてる子も。死んだ子も全部」
 
相当、臭い台詞だが、「観音経」の世界に丸投げしていると考えればスルーできる。
 
 「いつも、私が思っていること」
 
 それにしても、息子の問いに、こう答えるだけで充分だとは考えなかったらしい。
 
 母の反応など、ワンカットの提示で、もう、充分に想像できるではないか。
 
 なぜ、この国の映画は、殆ど「男性思考」の西川美和監督のように、観る者に問いかけ、考えさせることをしないのか。
 
  閑話休題
 
この映画は、母の反応に、約束済みの息子の反応を用意する。
 
 「母さん、ごめん」
 「あんたは誰にも謝る必要ないの。生きててね。あんたも命の一つなんだから。生きて、そこにいて」
 
言わずもがなの会話をリピートさせるのが、この映画の訴求力の「生命線」になっているから、単に、理念系先行の「ドラマ」として受容してしまえば、ここもスルーできるだろう。
 
そう思っていたら、またしても、人間の複雑な心理を活字の連射で処理する、ケータイ小説風のフィールドが入り込んできたから、正直、観る気が失せそうだった。
 
「神様、どうか、この子を守ってください」(キャプション)
 
なぜ、映像のみで勝負できないのか。
 
 言い過ぎかも知れないが、向井康介の脚本は、山下敦弘監督と組まないと、こんな諄(くど)いスクリプトを連射させてしまうのか。
 
 
 
2  時空限定の「御伽話」の物語 ―― その風景の落差感と悪意の発動による収束点
 
 
 
もはや、アンダーグラウンドな存在ではない「オタク文化」のイベント、コミックマーケット
 
そのコミケットでのアニメの同人誌即売会で、高校生の卓巳が、コスチュームプレイに包(くる)まれた、無類のアニメ好きの主婦・里美と出会い、あっという間に、金銭絡みの男女関係に発展する。
 
悪く言えば、見栄えのする卓巳を特定化した、里美のナンパの網の目に引っ掛かったのである。
 
「ムラマサ」というアニメキャラクターを、台詞付きで演じさせる卓巳を相手に、「あんず」というキャラに成り切った里美が、コスプレ・セックスを愉悦するのだ。
 
里美に請われるままのコスプレの世界に、十全を期して念を入れる心境に届かないものの、情事に耽る悦楽だけは、それだけで、この時期の〈性〉の処理の格好のインセンティブになるから、敢えて手放す必要もなかった。
 
しかし、卓巳に一目惚れした里美が自己投入する、この「非日常」の特化された時間が、マザコン夫・慶一郎との間で子作りができないが故に、普段から、義母の執拗な言語暴力を被弾して貯留された、心身不調のディストレス状態の解消になっていることが分明になっていくとき、映像の風景は変色していく。
 
  「ねぇ、何でできないの?やっぱり結婚させなければ良かった。慶一郎は、どうしてもって言うから、あんたの過去だって、眼を瞑ってきたのよ」
 「過去って?」
 「お金出せば、何だってできるのよ。調べて、全部、分ってんだから。あんたの学生時代に、何て呼ばれてたか。でも、そんなこといいのよ、どうだって。慶一郎が結婚したいって言うんだから!私はただ、孫が欲しいだけなのよ。何でそれが叶わないの」
 「赤ちゃんができないのは、私のせいばかりじゃありません。慶一郎さんにも原因が・・・」
   「バカなこと、言ってんじゃないわよ!あんたを食べさせるために、慶一郎は一所懸命働いているんじゃない。世の中には共働きで、家事だってやって、子供何人も育てている主婦だっているのよ!あんたはどう?仕事もしない。料理もろくにできない!子供も産めない!あんたなんて、外れ籤よ!それを息子のせいにして!あんたがもっと、頑張んないからよ!ほら、何とか言ってみなさい。最初から分っていたのよ、あんたがダメだってことは。欠陥品よ」
 
 以上は、電話での、義母からの一方的な攻撃的言辞である。
 
それにしても、この諄(くど)い台詞は、何とかならなかったのか。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ふがいない僕は空を見た(‘12) タナダユキ  <〈生誕〉への無限抱擁=「大いなる母性」のうちに収斂させていく手品の「生命線」>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/09/12.html