ヒッチコック(‘12) サーシャ・ガヴァシ <ヒッチコックの裸形の人間性を巧みに切り取り、紡いでいった物語の訴求力の高さ>

イメージ 11  「ハリウッドは、私を受賞させないことに喜びを感じている」
 
 
 
 「サスペンス映画の神様」と称されるアルフレッド・ヒッチコックが、次回作に選択した作品は、1957年11月に発覚した、「エド・ゲイン事件」のおぞましい犯罪を映画化することだった。
 
 その「エド・ゲイン事件」にヒントを得て執筆した、ユダヤアメリカ人作家・ロバート・ブロックの「サイコ」という小説に惹かれ、その映画化を目指していくのである。
 
 そもそも、ヒッチコック惹きつけたエド・ゲインとは、一体、何者なのか。
 
その限度を越える厳格性において、体罰も辞さない厳格なプロテスタント一家に生まれた、エド・ゲインの母のチェーン(連鎖)現象的な家庭環境下で育ったために、平気で夫を嘲り、一切の性的行為を禁じる倒錯的な教育を受けたエド・ゲインにとって、母の存在は絶対的であった。
 
当然、社会的適応性を顕著に欠落させたエド・ゲインは、「絶対愛」の対象だった母の死を受容できず、完全なる孤独に陥ったその心の空洞の補償を、どこに求めたのか。
 
死せし母親を墓から掘り出すという、倒錯的行為に振れていくのだ。
 
エド・ゲインの中では、母は永遠に生きているのだ。
 
 「ただの異常者ではない。こいつは、母親を墓から掘り出した」
 
 ヒッチコックの言葉である。(注)
 
小説「サイコ」に対するハリウッドの反対を押し切って、今回もまた、ヒッチコックの最大の理解者であり、脚本の共同製作など、常に助力を得てきた妻アルマの協力を求め、アルフレッド・ヒッチコックは、何とか映画化に踏み切りたいと考えていた。
 
 「重大なミスが一つ。中盤じゃなくて、最初の30分で殺すの」
 
 アルマのこの一言で決まった。
 
 しかし、当然ながら、「ビジネス」中心のハリウッドが、猟奇事件をリアルに描く「サイコ」の映画化を受容するはずがない。
 
 「観客はショックを求めている。変わったものが必要だ」
 「違ったことをすると、『間違えられた男』や『めまい』のように、誰かが大損する。MGMの『北北西に進路を取れ』。ああいうのをウチでも頼む」
 
あと一本の契約が残っている、アメリカの映画会社・パラマウント映画のバーニー・バラバン社長は、婉曲にヒッチコックの強い申し出を断った。
 
 それでも、「サイコ」の映画化の決意を変えず、自己資金でも作ると言う夫に、妻は問う。
 
 「なぜ、『サイコ』なの?」
 
 60歳になって、今や功成り名遂げた夫の反応は、極めてピュアなものだった。
 
 「映画を撮り始めた頃の楽しさを?我々には資金も時間もなかった。知恵を絞り、あの手この手で映画を撮ったな。もう一度味わいたい。あの解放感を」
 
この60歳の男の夢を、明晰なエージェントのルー・ワッサーマンはパラマウントと交渉し、自己資金で作る代わりに配給を求める契約を結ぶに至った。
 
 「もし、この映画がコケたら、我々は、しばらく世間の笑い者になるぞ」
 
 その夜、アルマに語ったヒッチコックの心情だが、覚悟ができていた。
 
 ここで、私は勘考する。
 
 「母親を墓から掘り出した」というヒッチコックの言葉に象徴されるように、彼の中のマザコン心理のコンテクストとリンクする見方が支持を得ているが、これはどこまでも脚色された映画なので、作り手のモチーフに内包されていたのが、「映画を撮り始めた頃の解放感」への原点回帰であったという解釈を捨てることはできないだろう。
 
 と言うより、「行動」に結ばれていくときの人間の心理複層的に絡み合っているので、そこには、様々に反応する感情の集合があったと考えたい。
 
 その経緯の中で、「人を惹きつける吐きそうな話」が特定的に選択されたのである。
 
 かくて、ヘイズ・コード(米国の厳しい映画検閲制度)をクリアするための、もう一つの闘いが始まった。
 
 女性の体にナイフが刺さる描写や、トイレの映像と、それを流すシーンでダメ出しされても挫けないヒッチコックも、ヘイズ・コードという障壁を越えるのに精神的疲労を覚えざるを得なかった
 
 「ハリウッドは、私を受賞させないことに喜びを感じている。心が折れるよ、エド。辛い」
 
 ヒッチコックの揺れ動く中に侵入するのは、エド・ゲインそれ自身だった。
 
「母を異常なほど好きだった」と言う、アンソニー・パーキンスのオーディション。
 
そして、マリオン役のジャネット・リーのオーディション。
 
 着実に映画製作が進めば進むほど、ヒッチコック心奥に入り込んで来るエド・ゲインの陰がリアリティの濃度を高めていく。
 
 「私は大きな過ちを犯しているのか?」
 
 ヒッチコックの弱音である。
 
 そんな心境下で、関係者全員に、物語の「秘密厳守」の誓いをさせた上で、「母親を墓から掘り出す」映画の撮影が始まった。
 
 満足な手応えを感じられない中で、脚本家ウィットフィールドとの共同製作を始めようとしているアルマに嫉妬を感じるヒッチコック
 
 絶えず、自分への噂を気にする男は、覗き趣味を止められない俗物性を持っている。
 
 だから、女優の日常会話を過剰に気にしてしまうのか。
 
 とりわけ、アルマへの嫉妬で、撮影中に苛立つのニューロティックな態度は、支配欲の強い男の偏頗(へんぱ)性を極めていて、とても興味深い。
 
「サスペンス映画の神様」と呼ばれようと、これが、殆ど許容範囲下にある人間の普通の様態であり、そういう瑣末なエピソードを拾い上げていく構成力に対して、私は全く違和感がない。
 
人間ヒッチコック」の裸形の相貌を、淡々と、何事でもないように描いていく。
 
女が分らんよ。なぜ、私を裏切る」
 
マリオン役のジャネット・リーに、思わず吐露した言葉である。
 
それでいいのだ。
 
因みに、他人の視線や振舞いに過敏に反応する辺りは、カトリック教会の中の修道会の一つである、イエズス会体罰に遭っていた少年期の経験に淵源しているとも思えるが、一切は不分明である。
 
一方、ウィットフィールドに求められて、海が一望できる彼の別荘で、脚本の共同製作を始めていくアルマ。
 
「タクシーでドブロヴニクへ」
 
 これが、二人の共同脚本のタイトル。
 
 ヒッチコックは、この脚本を読んで、アルマに「駄作」と決めつけ、ウィットにのぼせて、「男女関係」が描かれていないとまでこき下ろすのだ。
 
「女って奴は、何かに心を奪われると、現実が見えなくなるらしい」と夫。
 「あなたに、男女の何が分るの?」と妻。
 
 その直後の映像は、ゴミで散乱するプールを、荒れ狂うように掻き回すヒッチコック
 
 アルマへの嫉妬が昂じて、 マリオンが浴室でシャワーを浴びるときに出刃庖丁で襲われる「サイコ」の重要なシーンの際、ヒッチコックの情動が憑依したのか、狂乱状態と化した挙句、高熱で倒れてしまう。
 
 夫に代わって、一過的に「サイコ」の演出を担っているにも拘らず、相変わらず、アルマの浮気を疑う激しい嫉妬が、遂に炸裂する。
 
 「夫がプレッシャーに喘いでいる。君も妻なら、全力でサポートしろ!」
 
 ここまで言われて、封印していたアルマの憤怒も炸裂する。
 
 「家を差し出したわ!あらゆる面で、この映画を支えてきた。過去30年の作品と同じようにね。あなたは私に感想を求め、世間の評価に共に喜び、共に泣いた。私はパーティーを仕切り、女優との浮気にも耐えたわ。海外プロモートでは、あなたの横か、後ろに立ち、疲れを隠して、マスコミに笑いかける。でも彼らは私を無視し、肘で押しのけるの。彼らの眼に映るのは、偉大なる天才ヒッチコックだっけ。そして今、こんなこと何年ぶりかしら。ヒチコック映画から離れて、仕事をしてるの。非難される覚えはないわ!よく覚えておいて。私は、あなたの妻アルマよ。契約したブロンド女優じゃないわ。あれこれ指図しないで」
 
 そこまで吐き出されて、もう、ヒチコックは何も言えなくなった。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ヒッチコック(‘12) サーシャ・ガヴァシヒッチコックの裸形の人間性を巧みに切り取り、紡いでいった物語の訴求力の高さ>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/10/12.html