復讐するは我にあり(‘79) 今村昌平 <「犯罪映画」の最高到達点>

イメージ 11  「本当に殺したい奴、殺してねぇんかね?」
 
 
 
 一人の中年男と、一人の老婆が歩いている。
 
 中年男と言っても、37歳の壮年である。
 
 その名は榎津巌(えのきづいわお)。
 
 専売公社の二人の集金員を殺害した殺人犯として、全国指名手配中の男である。
 
その男が今、浜名湖に近い養鰻場の辺りを漫(そぞ)ろ歩いている。
 
浜松市の南部に位置する、浜名湖競艇からの帰路でのこと。
 
相手の老婆の名は、浅野ひさ乃。
 
浜松市の旅館「あさの」の女将・ハルの母だが、娘が旦那の妾である手前、彼女なりに寄食者としての身分を弁(わきま)えている。
 
それでも、客と女のセックスを、小窓から覗き見する厚顔さを持つ太い女。
 
この「あさの」は、「女の子を呼べる旅館」なのである。
 
その「あさの」で、「京大教授」を騙(かた)っていた榎津はセックス三昧の日々を送っていたが、「あさの」の女将・ハルとも懇(ねんご)ろになってまもなく、榎津の正体が露見されるに至った。
 
騙された悔しさよりも、「死のうか、先生」とまで言うハルの気持ちに当惑する榎津は、「あんたまで、巻き込みたくなか」と反応する。
 
ハルに泣かれて、夜の東京の雑踏で立ち往生する榎津。
 
その翌日には、浜松市の「あさの」に戻っている二人。
 
ひさ乃も榎津の正体を知っていて、今や、「京大教授」の肩書きを失った榎津に、「出て行ってくれよ!」と声高に叫ぶが、後述する母の事件によって、差別と孤独の日々を余儀なくされた薄幸のハルの反駁に遭い、何事もなかったような夜を過ごす三人。
 
そんな榎津とひさ乃が浜名湖競艇に行ったのは、その翌日だった。
 
ひさ乃は無類の競艇好きで、この日も大穴を当てて満足するが、その大金で全国指名手配中の殺人犯を逃そうとするが、その申し出を断る榎津。
 
その二人が今、養鰻場の辺りを歩いているのだ。
 
キョロキョロしながら、周囲を見回す榎津。
 
明らかに、ひさ乃を殺すタイミングを見計らっているのだ。
 
ひさ乃が差し出す大金を受け取らなかったのは、この行為に結ぶ意思のためである。
 
警察への通報を阻止すること。
 
それ以外ではない。
 
警察への通報をしないと相手が言っても、絶対に信じない。
 
榎津とは、そういう男である。
 
そんな男が、機先を制せられた。 
 
「殺すなよ、榎津。あんた、その気だら」
 
 その気配を察知したひさ乃の言葉で、榎津の殺意は呆気なく削がれていく。
 
 「夕べ、あんたが飛び出しちったとき、その気になった」
 「これで2度目かよ。3度目がほんとかや」
 
 ひさ乃の気迫には、相当の凄みがある。
 
 ニヤニヤ笑う榎津。
 
 何もかも見透かされている男の締りの悪さが露呈されているのだ。
 
 だから、笑って誤魔化す。
 
 「馴れ馴れしく笑わんでくれよ。あんたは、わしを人殺し同士だとも思ってるだら」
 「そうも思わんが。ムショ仲間なんごつ気がしとる」
 「よしてくれよ。ここはムショの中とは違うだ。娑婆はよ、すっかり変っちまっただ」
  「変わった。世の中、狂っとるんじゃ」
 「でもよう。わしはあの婆あ、本当に殺したかったで殺しただ。だもんで、殺ったときは、胸がすーとしただ。あんた、すーとしてるかね、今?」
「いや」
「本当に殺したい奴、殺してねぇんかね?」
「そうかも知れん」
「意気地なしだに、あんた。そんじゃ、死刑ずら」
 
凄い会話である。
 
ひさ乃には与(あずか)り知らないことだが、ここで作り手は、巌の父・榎津鎮雄(えのきずしずお)を、「本当に殺したい奴」として、観る者に印象づけているのは間違いない。
 
 この事実はラストで明かされるので、後述する。
 
養殖ウナギで全国的に有名な浜名湖養鰻場の池には、意味もなく、モブと化した人間たちの生態を象徴しているような、辺り一面に蝟集(いしゅう)する、食べ頃のウナギの群れが蠢(うごめ)いている。
 
 それを見て、自らが死刑になった姿をイメージする榎津の表情が強張っていた。
 
「殺ったときは、胸がすーとしただ」と言ってのけたひさ乃は、かつて、憎悪に燃える女を殺し、近年まで刑務所に長く入獄していた過去を持っていた。
 
そんな女が、現在、全国指名手配中の殺人犯に、本当に殺したい奴を殺してないから「意気地なしだ」と言い放って見せるのだ。
 
この由々しき会話によって、ひさ乃に対する榎津巌の殺意の牙の矛先が決定的に約束されたと言えないい辺りが、この男の「分りにくさ」を排除できない要因にしている。
 
と言うより、榎津巌は、ひさ乃が自分の正体を知った時点で、躊躇なく殺害することを考えていたはずである。
 
彼にとって、自分の逃亡のリスク要因となる一切のものを、物理的に排除していく意志において一貫しているのだ。
 
そこに、「情」が絡む余地は、殆どないと言ってもいい。
 
なぜなら、一時(いっとき)、男の内面に「情」が入り込んでいたとしても、そのことが、この男の行動を規定する推進力にはならないらである。
 
「情」と行動が濃密にリンクし合って、それが一つの確信的行為に発現するという普通の風景が、この男の人格内部に見出しにくいのである。
 
だから、榎津巌という、突き抜けて厄介な男にとって、「情」と行動は全く別次元のモチーフによって動く何ものかでしかないのである。
 
 
 
2  「あれは、殺った俺にも、よう分らんのじゃけん」
 
 
 
前述したように、「情」と行動が全く別次元のモチーフによって動く厄介な男の、その歪んだ人格の身体表現は、「あさの」の女将・ハルの殺害についても説明できるだろう。
 
女から一方的に惚れられ、セックス抜きに、仮にその情愛を受容する相応の「情」が存在していたとしても、男の中では、そのような類いの指向性によって、自分と心中することすら惜しまない女への殺害行為を、決定的に抑制し得る心理的推進力にはならないのである。
 
特定異性他者を情愛をもって抱擁し、心の芯から愛する能力が不足しているとさえ思えるのだ。
 
それが、この男の人格フレームの理解への特徴的な印象である。
 
なぜ、榎津巌は、自分を愛する女を殺したのか。
 
「あれは、殺った俺にも、よう分らんのじゃけん」
 
ハルの殺害の動機に合点がいかない刑事の前で、男は、そう答えた。
 
本心だろう。
 
榎津自身ですら説明できないのは、人間的な情愛能力の致命的な欠損を認知できていないからである。
 
内蔵する感情の深いところで、特定異性他者を包括的に愛する情愛能力を、人格フレームのうちに形成的に内化できない者が、その能力の致命的な欠損を認知できないのは当然のことである。
 
心理学的に言えば、その養育史の中で、十全な社会適応を保証するに足る、正常且つ、健全な「自己愛」を培養し得ていないのである。
 
人間にとって極めて重要な「自己愛」は、合理的に加工し、軌道修正しつつも、生涯を懸けて培養し、自らの「物語」のサイズに合わせながら作っていくものである。
 
健全な「自己愛」を持ち得ない者が、特定異性他者を健全に愛することなど叶わない。
 
「自己愛」を健全なものとして肯定したのは、オーストリア精神分析学者ハインツ・コフートである。
 
コフートによると、健全な「自己愛」を培養できなければ、他者への共感に乏しい人格が形成されると説明する。
 
その人格の健全な発達のために、持続的に安定した環境を保証し得る大人、即ち、親の存在が不可避とされるのは言うまでもないだろう。
 
更にコフートは、適切で、適度な欲求不満の状態を経験することの重要性をも強調した。
 
このことを考えるとき、榎津巌という男の自我のルーツに肉薄することが、本作の基本的理解のキーポイントになると言えるが、ここでは、ハルの殺害の動機について、もう少し言及したい。
 
自死」に向かうと思えるような、榎津巌の犯罪の極限的な暴走の日々にあって、特定異性他者との「愛の逃避行」などという幻想は、丸ごと、お伽噺の世界でしかないだろう。
 
「おのれの脚で、精一杯、自由に逃げ回ったんじゃ」
 
拘置所の接見室で、父・鎮雄に言い放った男の言葉である。
 
まるで、逃亡生活それ自身を自己目的化したような男の行動が、国家権力との「命の遣り取り」のゲームを極限まで突き詰めていく行程のうちに、得も言われぬ悦楽を賞味しているとも受け取れる言辞なのだ。
 
ここには、「愛の逃避行」というお伽噺が侵入し得る何ものもない。
 
従って、素性が露見した今、逃亡の絶好の隠れ蓑と化していた、「緊急避難所」という安全弁を失ってしまった男は、女を殺害した。
 
ただ、それだけのことではないのか。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/復讐するは我にあり(‘79) 今村昌平 <「犯罪映画」の最高到達点>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/09/79.html