そして、私たちは愛に帰る(‘07) ファティ・アキン <水面に反射する陽光の眩い点景>

イメージ 11  【イェテルの死】の章 ―― 父の子の決定的確執の果て
 
 
 
 「あんたに求めることは二つだけ。わしと一緒に暮らし、寝るだけでいい」
 
 この一言で全て決まった。
 
ハンブルクの大学で教授を務める一人息子・ネジャットの生後、半年後に逝去した妻の代わりに、同じトルコ出身の娼婦・イェテルとの〈性〉を金で買う、年金生活の老人アリの言葉である。
 
かつて、連れ子の娘と再婚したが、「うまくいかず、彼女たちは出てった」と吐露るアリにとつて、寂しさと〈性〉の処理は喫緊の問題だった。
 
 「私の夫は右翼に殺された」
 
イェテルの言葉である。
 
どうやら、彼女の夫は政治活動家であったようだ。
 
 夫の死によって生計を立てる方途が限定的な女にとって、トルコの大学で教育を受ける娘のために、娼婦稼業を繋いでいる風景は決して陰惨なものではない。
 
 目的を持って生きている分だけ、張り合いがあるのだろう。
 
そんな女が、今、「専業娼婦」として、年金生活の老人に買われたのである。
 
 「彼女に手を出すな」
 
そんな下品な言葉を、平気で息子・ネジャットに言い放つアリは、自宅で重い心臓発作で倒れ、入院するに至った。
 
 「娘の教育費のためなら、何でもするわ。先生になってもらいたいのよ。あなたのように」
 
 病院からの帰路、倫理意識が高く、誠実で行動規範を逸脱しないネジャットに、隠さずに打ち明けるイェテル。
 
だから、娼婦である事実を娘のアイテンに隠し、靴屋で働いていることにしていると言うのだ。
 
「娘に会いたい。ずっと声を聞いていない」
 
そう言って、嗚咽するイェテル。
 
倫理意識が高いネジャットに、イェテルへの深い同情心が生れるのは必至だった。
 
そんな真面目な息子に本気で嫉妬する父。
 
退院したアリは心臓が悪いのに、不摂生な生活を送る現実を目の当たりにして、厳しく注意するネジャット。
 
それを聞き入れない父。
 
「金を払ってんだから、好きな時にやるさ」
 
アリの言い分である。
 
教養ある息子の性格と全く相容れないアリの傲慢な態度は、逆に、イェテルの反感を増幅するばかりだった。
 
「最低の男だわ!」
 
嘲罵を浴びせるイェテル。
 
 短気なアリは、思わず、イェテルを殴りつけてしまった。
 
打ち所が悪く、イェテルは、そのまま息を引き取ってしまうのだ。
 
自らが招いた最悪の状況下に捕捉され、後悔し、号泣する男は、結局、異国の刑務所での収監生活を強いられるに至
 
この時のアリの由々しき行為の心理は、以下のように説明できるだろう。
 
 金銭で買った〈性〉によって作られた支配関係が一瞬にして崩され、あろうことか、その関係の総体を全否定する身体表現をダイレクトに被弾することで、爆発的に噴き上がってきた激しい怒り ―― これが、この状況下でのアリの行為の心理的推進力になったものと考えられる。
 
 だから、嫉妬感という単一の感情のみで、この男の、この状況下での行為の本質を説明するには無理がある。
 
 特定他者への精神的愛情が、第三者の侵入によって阻害された事態による嫉妬感というよりも、厳密に言えば、金銭で買った〈性〉によって作られた支配関係における、「奴隷」とも言うべき相手の存在性が、心優しい柔和な息子との関係の中で変容した行為それ自身を許せなかった。
 
要するに、相手のイェテルが、一介の「娼婦」という記号性を離脱し、一人の人間としての「人格性」を持ったことに対する偏頗(へんぱ)な感情が、その根柢に張り付いているのだ。
 
宗教との関係は不分明だが、明らかに、そこには、職業と女性蔑視へのストレートな意識が張り付いている。
 
それ故に、そのような偏頗な感情に塗り込められた父とは完全に切れて、女性蔑視に全く振れず、近代的自我を持つ息子のネジャットが、その倫理的価値観の高さから、父の犯した由々しき犯罪への贖罪的意味を持つ行為に向かうのは必至だった。
 
まもなく、イェテルの遺体はトルコに搬送され、それを見送るネジャット。
 
母国トルコでの埋葬に立ち会うのだ。
 
そのネジャットの目的は、イェテルの娘・アイテンへの学費の援助であった。
 
父親の責任を取りたいのである。
 
しかし、アイテンを探しにトルコに来たが、消息不明で居場所が分らず、途方に暮れるばかりだった。
 
結局、事態の成り行きで、ネジャットはトルコの首都イスタンブールに留まることになる。
 
まもなく、ドイツ語書籍の専門書店の店主になり、この小さなスポットを拠点にして、いつ会えるとも分らないアイテンを探す日々を繋いでいくしかなかった。
 
 まさに、「ドイツ在住のトルコ人教授が、トルコでドイツ語の本屋を経営」(前店主の言葉)するに至ったのである。
 
 この時点で、ネジャットは、「人殺しなんか父じゃない」という強い思いから解放されていなかったのは言うまでもない。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/そして、私たちは愛に帰る(‘07) ファティ・アキン <水面に反射する陽光の眩い点景>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/10/07.html