マグノリアの花たち(‘89) ハーバート・ロス <「対象喪失」の悲嘆を「人間の生命の連鎖という営為」に収斂させた傑作>

イメージ 1Ⅰ  毒舌が連射される女たちの、社交のミニスポットの長閑な風景
 
 
 
時は1980年代。
 
アメリカ南部・ルイジアナ州の、如何にも長閑(のどか)な小さな町にある美容院。
 
その美容院に、美容学校でヘアダイの成績が一番と言うアネルが、トゥルーヴィの店に就職した日から開かれる物語。
 
「生まれつきの美人はいない。それで美容院は成り立っている」
 
トゥルーヴィの口癖である。
 
その日は、イーテントン家の長女シェルビーの結婚式だった。
 
日々のインスリン注入を不可避とする1型糖尿病患者のシェルビーは、結婚後も保母の仕事を続けると言うが、母のマリンは、娘の健康状態を考えて、一貫して反対する。
 
その母娘が、晴れの日のために、トゥルーヴィの店で髪を結ってもらっている。
 
社交のミニスポットと化した美容院で弾む、元気な女たちのトーク
 
そこには、前町長の未亡人で陽気なクレリーもいるから、話の種が尽きないが、何と言っても、話題の中心はシェルビーの結婚のこと。
 
そのシェルビーが発作を起こしたのは、まさにトークの花盛りのときだった。
 
血糖コントロールの不具合による糖尿病の発作である。
 
手慣れたように、母のマリンがオレンジジュースを無理に飲ませて意識を回復させるが、妊娠に負担がかかるので、子供を産むことを医師から注意されている現実が相当の心理圧になっていたのだ。
 
「養子でもいい」などという優しさを見せる、結婚相手のジャクソンの思いを考えたこととも無縁でないだろう。
 
マリンの夫ドラムが鳥を追い払うために、銃声を響かせる機械音のために、愛犬のセントバーナードが脅えると騒いで、気難しい未亡人・ウィザーが怒鳴り込んで来たのは、髪結いが終わり、母娘が美容院から出たときだった。
 
ドラムの行為の目的は、娘の披露宴を無事に済ますための計らいであり、全く悪意がない。
 
怒鳴り込んで来たウィザーがマリンの謝罪を受け、帰ろうとすると、その視線に入ったのが、美容学校から派遣されて来たばかりのアネルだった。
 
土地の者でないアネルを質問攻めにした結果、彼女の財産を持ち逃げした「犯罪者の夫」の存在を告白させるに至った。
 
雇用されない不安を感じていたので、正直に話せなかったという事情を聞いた女たちは、一切を受容し、その日のシェルビーの披露宴アネル招待する。
 
そのアネルがサミーという土地の若者と出会ったのは、シェルビーの披露宴。
 
ここから、二人の関係が開かれていく。
 
クリスマス・フェスティバルでは、眼鏡をコンタクトレンズに換え、すっかり明るくなったアネルの変貌ぶりが際立っていた。
 
彼女もまた、南部の町の根っからの人好きのする風土に馴染んでいたようだった。
 
「年をとるほど、分らず屋になるんだから」とクレリー
「あんたは醜くなるわ」とウィザー
 
披露宴の後の二人の会話だが、こんな毒舌が連射される物語の基調は、未だ充分にコメディラインの筆致だった。
 
 
 
2  母と娘 ―― 「命」を巡る確執
 
 
 
「妊娠したの
 
この唐突なシェルビーの告白に、動揺する母マリンは言葉を失った。
 
気まずい沈黙が流れる。
 
祝福されない告白への反応に、苛立ちを抑えられないシェルビーは不満を漏らす。
 
「もう少し、喜んでくれたら。出産は7月。ママ、準備を手伝って」
 
沈黙の中から、マリンは尋ねる。
 
「ジャクソンは何て?」
「“男でも女でも構わない”って。でも、本当は男の子が欲しいのよ」
 
ここまで聞いて、娘の体を心配するマリンは、本音を突き付ける。
 
「分らないの?医者の言葉を聞いたはずよ。あんたも彼も分らないの?」
 
養子をとることを勧める母の気持ちを理解しながらも、シェルビーは反応する。
 
「私は子供が欲しいの。私は自分の子が欲しいのよ。夫婦の絆よ」
「分ったわ」
 
娘の真剣な表情を凝視しながら、その一言を残して、去っていく母。
 
なお母を追って、自分の思いを吐露する
 
糖尿病くらい
「あんたの場合は違うのよ。無理はできないのよ」
心配しないで。誰にも迷惑をかけたり、傷つけたりはしないわ。人を思い通りに動かしたいのね」
「母親に向かって何てことを言うの?」
 
口調は声高になっていないが、もう、感情と感情との衝突になってしまって、折り合いがつかない状態を露わにするばかりだった。
 
それでも、諦念しないは、涙ながらに訴える。
 
「お願いよ、ママ、理解して。空っぽの長い人生より、30分の充実た人生を」
 
クリスマスの晩のことだった。
 
マリンも、ここまで言われて、決定的に拒絶する態度を断念するしかなかった。
 
このシーンはとても自然で、感動を狙ったあざとさも全く感じられず、観る者の心に深く沁み入る描写であった。
 
同時に、物語の基調がコメディラインの筆致から、シリアス系にシフトしていく重要なシーンである。
 
そんな中でも、逞しい女たちの滑稽な会話が拾われていく。
 
その中枢に、悪口雑言を連射するウィザーだけは変わらない。
 
「もっと、ヘルシーな考え方を。センターで精神医と話をしたら」
 
全てを吐き出したシェルビーの表情に明るさが戻り、母のマリンにも、ウィザーにアドバイスする余裕が生れていたが、ウィザーの反応は、いつものパターン。
 
「病気じゃないわ。40年、機嫌が悪いだけなのよ!」
 
ウィザーの反応を、いつものように受容するクリスマス・フェスティバルの渦中で、父のドラムがシェルビーの妊娠を発表し、陽気な連中たちの祝福の喝采が沸き起こった。
 
ただ一人不安を抱えるマリンの周囲に、元気な女たちの輪ができて、皆で励ましていく。
 
「人間は試練に耐えて、強くなると言うわ」とクレリー。
私の取り越し苦労ならいいんだけど・・・」とマリン。
 
そのマリンの手に、女たちの熱い友情の手が重なっていった。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/マグノリアの花たち(‘89) ハーバート・ロス <「対象喪失」の悲嘆を「人間の生命の連鎖という営為」に収斂させた傑作>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/11/89.html