1 「ママだけの部屋」に変換させる母を見透かす幼児の拒否反応
自分が犯した罪で懊悩する少年の心理描写で埋め尽くされる映像の切なさは、多分、一生忘れない。
本作もまた、説明描写を削り取り、繊細な心理描写で埋め尽くされていて、観る者の洞察力が試されるようだった。
殆ど完璧な映像は、スコットランド生まれの女性監督の、切れ味鋭い力量を充分に検証する作品に仕上がっていて、全く文句のつけようがない。
以下、この一級の名画の梗概と批評を結んでいく。
―― 旅行代理店の事務として採用されたエヴァが、その喜びを噛み締めながら、街路に出るや、いきなり、見知らぬ中年女性から顔を叩かれ、罵倒された。
「地獄で腐り果てろ!クソ女!」
そんな罵倒を浴びせられても、ひたすら耐えるエヴァ。
「キャンディーくれよ!」
家の前で叫ぶ子供を怖れ、家内の灯りを消し、狼狽(うろた)え、怯(おび)える中年女がそこにいた。
仕事場でも、社員から完全に無視され、全く反応を得られないから、その孤独の状況は言語を絶するものだった。
街の者の悪意によって、真っ赤なペンキを家の壁や玄関、車に塗り散らされ、それを必死に洗浄するエヴァの現在性は、トマト祭りで全身が真紅に染まり、陶酔感を回想する冒頭シーンでの絵柄に象徴されるように、「伝説の冒険家」と称された、かつての絶頂期とは完全に切れていた。
そのエヴァの現在に、繰り返し、侵入的想起(フラッシュバック)が襲ってくる。
どうやらそれは、自分の息子であるケヴィンが犯した犯罪と関与することが、漸次、映像提示されてくるが、その内実は不分明である。
今、少年刑務所に入所しているケヴィンを訪れても、全く言語交通がなく、その不快な「間」の中で、ケヴィンは自分の爪を歯で咬み切って、それを口に出し、接見室のテーブルの上に並べるのみ。
度々、そのケヴィンを妊娠し、産まれて、乳児の時の回想が挿入される・
恋人フランクリンとのセックスの中で、「安全日」である事実の確認を怠っため、明らかに、求めもしないケヴィンを産んだことに対する後悔の感情が、エヴァの心中に読み取れる。
だから、乳児のケヴィンの泣き声を、まるで機械音のような雑音にしか聞こえないのか、エヴァの脳裏を劈(つんざ)いてしまうのだ。
今や、夫のフランクリンに懐いても、エヴァの抱っこで泣き叫ぶ乳児。
幼児になってもオムツをするケヴィンが、ボール遊びの相手をする母・エヴァの一挙手一投足に、全く反応しないのだ。
「乳児の頃、泣き過ぎて、聴覚がやられたのかも」
自閉症の初期症状を疑い、3歳になっても発語しないケヴィンを、小児科で診察しても、「異常ありません」と言われるばかり。
「“ママ”と言って」
エヴァが、そう促して、ようやく出て来た言葉が、「やだ」という一言のみ。
「ケヴィンが来るまで、ママは幸せだった。でも今は、毎朝起きると、こう思うの。“フランスへ行きたい!”」
拒絶的な言動しか発しない幼児のケヴィンに放った、母・エヴァの言葉である。
その一言を聞いて、無愛想な表情を見せる夫・フランクリン。
自室に様々な世界地図のポスターを部屋の壁全体に張り付けて、それを「ママの部屋」にするエヴァ。
外国に行けないストレスを、せめて、「ママの部屋」=「ママだけの部屋」に変換させるのだ。
「バカみたい」
「ママだけの部屋」に変換させる母の感情を見透かす、ケヴィンの拒否反応である。
未だオムツが取れないケヴィンの拒否反応は、「ママだけの部屋」の壁全体にペイントで塗りつぶしてしまうのだ。
「特別にしたかった」
ケヴィンの一言に激昂するエヴァ。
しかし、息子の行動に叱ることなく、妻を慰めるだけの夫がそこにいる
そればかりではない。
母との「計算学習」の際にも、でたらめな答えをわざと言った後、ウンチを洩らし、ここでも母を苛立たせるばかり。
母の怒りがピークアウトに達し、とうとう、ケヴィンの左腕を骨折させてしまうのだ。
トイレトレーニングを完全に終焉しているはずなのに、敢えて、このような行為を身体化すること自身に、ケヴィンにとって「意味」があることが判然とする。
「無邪気な子供のやることを気にするな」
エヴァを慰める夫・フランクリンには、「無邪気な子供のやること」としか思えないようなのだ。
ケヴィンに妹ができたのは、「無邪気な子供のやること」を繰り返しているときだった。
映像の中で初めて、母・エヴァに甘え、父を邪険にするシーンが登場する。
明らかに、母を独占したいという感情の現れであると見ることができる。
今、その母が、「ロビンフッドの弓矢」の話をしている。
その話に興味を抱いたケヴィンが、母に身を寄せて、「ロビンフッドの弓矢」の話に聞き入っていた。
ケヴィンの強い思いが通じたのか、まもなく、玩具の弓を父に与えられ、熱心に教えてもらう画像が挿入される。
そして今、思春期を迎えたケヴィン少年は、本格的なアーチェリーを練習するに至り、趣味の範疇を超えて、弓術の虜(とりこ)となったような変容を見せていく。
しかし、その変容は弓術の世界に留まっていた。
相変わらず、母の前で妹を虐め、オナニーを見せるケヴィンが、そこにいる。
そんなケヴィンが、かつて、「伝説の冒険家」と称された時代の母の大きなポスターの前で、立ち止まって見入っていた。
それは、ケヴィンの自我の底層に張り付いている印象深い絵柄だった。
その場面を目視し、喜びを抑えられない母・エヴァの絵柄もまた、物語の芯となるような映像提示だった。
なぜならケヴィンは、母の行為が自己満足を得るためのものと見透かしているが故に、「心(情緒)の共同体」としての家族の風景の欺瞞性を、自ら剔抉(てっけつ)する行為に振れてしまうのだ。
2 「ロビンフッドの弓矢」を炸裂させる少年の心の闇
クリスマスの日、ケヴィンが父にプレゼントてもらったのが、最新型のアーチェリーだった。
「良い音だな。パワフルだ」
そのアーチェリーで、家の庭で練習に励むケヴィンを褒める父の言葉。
それを窓際から目視し、不安な表情を拭えないエヴァ。
そんな折り、妹のセリアが可愛がっていたハムスターがいなくなって、一晩中、両親が探すが見つからない。
排水管の溶剤を外に出しておいたことで、その溶剤がセリアの眼に入り、左目を失明するという由々しき事故が起こったのは、その直後だった。
人生論的映画評論・続/少年は残酷な弓を射る(‘11) リン・ラムジー<「分離ー個体化」し得ずに、倒錯的に捩れ切った少年の自己完結点と、その崩壊感覚>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2015/04/11.html