1 「俺は、何か意味あることで覚えられたいんだ」
1952年のケンタッキー州。
アルコール依存症の父親を持つために、ポテトを原料にする密造酒を売り歩くことで、自分たちの力で生計を立てようとする年端もいかない兄弟がいた。
「まじめに稼ぎたいだけだ」
自立志向の強いその兄の言葉である。
兄の名はラリー。弟の名はジミー。
それから20年。
ラリーとジミーの兄弟は、「ハスラー・クラブ」を経営していたが、客に対する無料サービスが昂じて、経営が悪化していた。
経営悪化の打開のために、ラリーが打った手は、ダンサーのヌード写真満載の雑誌を発行することだったが、しかし、売れたのは25%だけで、15万部の返品という始末だった。
「神が男を創った。女もだ。その同じ神様がヴァギナも創った。その神を拒否するのか」
「稼ぐ」ことに執着するラリーは、この程度のリスクで諦める男ではない。
だから、チャンスが巡ってくるのか。
200万部の販売部数を達成し、オハイオ州知事も買ったというニュースが、コメント付きでテレビで放送されるのだ。
当然、百万長者となり豪邸を手に入れ、新人ダンサー時代からの恋人・アルシアと結婚したラリーを囲繞する風景がポジティブな熱気のみで歓迎されるわけがない。
ここから、「宗教国家」アメリカの裸形の相貌が牙を剥く。
「おぞましいものが現れました。シンシナティに。まともな人までが堕落させられる」
「健全な市民を守る会」主催における、銀行家・投資家等の肩書きを持つカトリック教徒・チャールズ・キーティングの声高な講演の言辞である。
ラリーが「猥褻罪、及び組織犯罪容疑」で逮捕されたのは、「ハスラー」の企画で盛り上がっていた時だった。
幸いにして、アルシアの奔走で保釈されるに至る。
「あなたの雑誌は、かなり度を越している。しかし、僕には興味がある。この事件は僕の得意分野だ。専門は“自由”です」
これが、アランがラリーの弁護を引き受けた理由だった。
1977年のことである。
「私は、誰もが自分で物事を判断できる国に住めることが幸せだ。この国では、ハスラー誌を読みたければ読めばいいし、嫌なら捨てればいい。自分の意見は自分のものだ。その権利が大切なのです。ここは自由の国だ」
「自由の国」アメリカという「物語」を信じ切る、被告人であるラリーを感動させた、殆ど異論の余地がないとも思われる最終弁論を括ったアランの言葉である。
裁判長の判決は、懲役25年という苛酷な刑罰だったが、刑務所に収監されたラリーが上訴審で完全勝訴の判決を勝ち取ったことで、僅か半年にも満たず、娑婆の世界に戻って来る。
「殺人は違法だ。だが、その殺人現場を写真に撮れば、ニューズウィークの表紙だ。そして、セックスは合法だ。それを写真にしたり、女性の裸を撮ると、刑務所に入れられる」
「自由な出版を守る会」の集会の場で、戦争における殺人と猥褻な写真を大きく写し出し、どちらの方が「悪」であるのかと、長広舌を振るうラリーの弾け方は、上訴審で完全勝訴の判決を勝ち取った男の悦楽的達成点でもあった。
面白いことに、このラリーの並外れたエネルギーが、突然、信仰の世界に吸収されていく。
「これからはセックスを、より自然なものとして、そこに男もいれる。つまり、創世記のアダムとイブだ。可愛い女の子たちを、大きなガラスの十字架で遊ばせる。今の時代は、乱れたローマ時代だ」
敬虔なクリスチャンであるルース・カーター(ジミー・カーター大統領の妹)と会ったことで、ラリーのエネルギーが、「大きなガラスの十字架で遊ばせる可愛い女の子たち」という訳の分らない言辞に結ばれるが、その女性の裸がミンチされる表紙の図柄を思いつくところが、如何にもラリーらしい。
運良く救われたアランと違って、下半身麻痺の重傷を負ったラリーは、見舞に来たルースに、「女房とセックスもできない。神はいない」と嘆くことで、彼の信仰への耽溺は呆気なく終焉する。
疼痛緩和のための手術の結果、精神的に復元したラリーが戻ったのは、今や、大企業にまで成長した「フリント出版社」。
しかし、車椅子で復職しても、異論を吐く副社長を馘首(かくしゅ)するなど、自己中の性格は全く変わらない。
FBIのおとり捜査のビデオを放送局に流したことで、今度は、国家を相手にする「戦争」にまで突き進んでいく。
法廷でヘルメットを被ったラリーはビデオの出所を拒否したことによって、賠償金の支払いを求められた挙句、うず高く積もるような紙幣を法廷内にばら撒き、米国旗のオムツを履いた醜悪な姿を裁判長に見せる始末。
「そっちが俺を赤ん坊扱いするからだ」
ラリーの挑発に対するペナルティは、「国旗冒涜罪」による逮捕と、保釈中のルールを破ったことで、精神療養刑務所への収容を命じられるに至る。
「何を敵に闘ってる?僕はもう辞める」
やりたい放題のラリーのアナーキズムに、とうとうアランも切れてしまった。