心の風景 「『それがどうした』 ―― 死の際(きわ)で青年司祭の放った究極のメッセージが、抑鬱状態を噛み切り、解き放つ」

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1  反転思考を、最初で最後の供給源と化す
 
 
 
 
  
 
腹八分程度だが、良い映画は空腹感を満たすほどには観ている。 
 
しかし、枯渇した魂に潤いを補給し、襤褸(ぼろ)に塗(まみ)れた旗を立て、その旗を担いで、「鈍足の一歩」を踏み出すことが可能な作品に出会うことは滅多にない。 
 
そんな滅多にない作品の一つに、フェデリコ・フェリーニ監督の「81/2」(1963年製作)がある。 
 
後にも先にも、これほどまでに、魂に震えが走るような映画を観た経験がなかった。 
 
ラスト7分間に凝縮された、フェリーニの映像世界全開のシークエンスには、正直、完全にお手上げだった。 
 
夕暮れの発射台跡に照明が灯り、道化の楽隊が現れ、律動感溢れる演奏が開かれた。 
 
4人プラス1人(グイド少年)で構成された道化の楽隊の先導によって、物語の全ての登場人物が発射台から降りて、撮影現場に集まって来たのだ。 
 
「皆、一緒に手を繋ぐんだ。人生は祭りだ。一緒に生きよう」 
 
マルチェロ・マストロヤンニ(グイド=フェリーニ)は、そう言うや、出口の見つからない絶望的なカオス状況から脱し、解放感に満たされたグイドが、メガホンで指示している。
 
人々は手を繋いで、大掛かりな撮影現場のセットの周りを回っていく。
 
全ての登場人物が手を繋いで、セットの周りを回るのだ。 
 
「私はもう一度作りたいとは思わないね。撮影開始の直前に、私は何がなんだか分からなくなって絶望状態に陥り・・・(中略)最後の何週間か、私は不安にせめたてられながら、その映画の構想を得た過程をさかのぼろうとした」 
 
映画作りに追い詰められていたフェリーニ監督の述懐である。 
 
ラスト7分間は「フェリーニの美学」が噴き上げて、「道」に代表されるような「詩的レアリズム」から、「幻想的かつシュルレアリスト的な表現」への一大転換を示す、稀有な映画作家の画期的な作品が自己完結した瞬間だった。 
 
観る者に「生きる勇気」を与える作品とは、こういう映画であると実感させて止まなかった。 
 
しかし、残念ながら、ラスト7分間における「81/2」の決定的反転の効果は、私にとって限定的だった。 
 
81/2」の決定的反転の効果を受容し得るには、「生きる勇気」を求める何かが私に内在し、それが、「鈍足の一歩」を踏み出すことが可能な復元力を、私の感覚神経によって捕捉できていなければならないからである。
 
しばしば、「鈍足の一歩」を踏み出す復元力が、私の内側から消失してしまうことがある。 
 
原因は分っている。 
 
渾身の力を振り絞って、このような表現活動を自己完結させた時、全力を注げば注ぐほど空洞感が生まれ、全身に虚無感が広がり、次のステップに這い入ることができなくなってしまうしまうのである。
 
次のステップが待っていても、心が動かなくなってしまうのだ。 
 
次のステップが待っていなければ、より深刻な状態を呈するから、いよいよ厄介になる。 
 
エネルギーを消耗し尽くし、一時(いっとき)の充実感が剥(は)がれ、存在それ自身の「何か」への価値や意味が虚ろになり、加速的に抑鬱状態に捕捉され、私の内側で虚無感が広がってしまうのである。
 
だから、内側に虚無感が生まれないように、常に神経を張り巡らせているが、それでも止められないから辛いのだ。
 
 抑鬱状態に捕捉され、無為な時間を放置していれば、益々、心が苦しくなるので、ほんの少し残っている熱量を穿(ほじく)り出して、「私の時間」・「私の状況」を開かねばならない。 
 
動かなければ、止むことのない中枢性疼痛にやられてしまうのだ。
 
 そのためにはベンゾジアゼピン系の抗鬱剤を、体内に繰り返し放り込む。 
 
幾らかでも神経が流れている不全麻痺の肉塊の、言葉に出せないほどの激痛が相当の頻度で何十時間も続く、悪魔の如き中枢性疼痛の病苦から解放されることのない者にとって、もう、これしかない。 
 
そして、心がついてこられなくても、無理にでも動かしていく。 
 
嫌でもなんでも、表現活動に押し込んでしまうのだ。 
 
何とか押し込んだ心を施錠し、そこで堪(こら)えられるか否か、それが全てである。 
 
これにしくじると、虚無感の広がりが断崖の際(きわ)にまで追い込まれるので、そこで堪え切らねばアウト。 
 
それでもいいと思っている。 
 
思うに、ガードレールクラッシュによって脊髄損傷者になった私の日常の内実は、射程が壊され、時間の向こうに一条の光明も閉ざされ、訳の分からない不安だけが膨張し、無為な時間の浮腫(むく)みに耐えられず、いつものように自己嫌悪のトラップに嵌り、ただ虚しく、どこまでも虚しく、やるせないほど虚しく、その心身の崩壊感覚の恐怖のドツボに嵌まり、まるで、津波のように押し寄せてくる時間の逆巻く波浪の間断ない攻勢を受け、永劫に繋がれているようだった。
 
とは言っても、永劫に繋がれていると思うのは幻想である。
 
 幻想に押し潰されるわけにはいかない。 
 
表現活動に押し込んだ心が、いつしか変容する。 
 
これも幻想である。 
 
私は、この幻想に一切を放つ。 
 
徹底的に思考し、思考し続ける。 
 
すると、少し楽になる。 
 
少し楽になった気分が、集中力を高めていく。 
 
これで、一気にのめり込んでいく。 
 
自己完結するまでのめり込んでいくのだ。 
 
「絶望とは死に至る病だが、絶望の苦悩は死ぬことができないというまさにその点に存するのである」
 
死に至る病」の中で、デンマーク実存主義哲学者・キルケゴールは、そう言い切った。 
 
ここで、私は勘考する。 
 
「死という最後の希望さえも遂げられないほど希望がすべて失われて」(前掲書)いる状態を「絶望」と呼ぶなら、私の心的状況は「絶望」ではない。
 
表現活動に押し込んだ心が、いつしか変容するという幻想に一切を放つことができるような状態を「絶望」と呼ぶのは、あまりにおこがましい。 
 
「人生が絶望的でも、戦うことが人間の義務だ。戦わなければ、障害はどんどん大きくなり、あとは窓から身投げだ」
 
 これは、イングマール・ベルイマン監督の「インド行きの船」(1947年製作)の中で、主人公の青年が、閉塞的な世界に閉じこもる恋人に放ったセリフである。 
 
この言葉に勇気づけられるほど、私の心的状況は「絶望」とは無縁なのだ。 
 
中枢性疼痛にはめげるが、たかだか、心が苦しいだけなのである。
 
 抑鬱状態に捕捉されると言っても、鬱病に罹患しているわけではない。 
 
抗鬱剤を体内に繰り返し放り込むことで、何とか、表現活動が繋げるレベルの心的状況は「絶望的」だが、「絶望」という地獄の使者に呪縛されていないのだ。 
 
虚無感などと言うのも、おこがましい。 
 
自分の弱さを糊塗(こと)しているだけではないか。 
 
そう思う。
 
 この反転思考が、私を活かす。 
 
じわじわと、確実に崩れゆく身体の厳(おごそ)かな触感を蹴飛ばし、この恐怖前線の只中で、蜘蛛の糸の粘液によって被膜を付着させる自我を磨耗させることなく、反転思考を推進力にして、衣を奪われた一匹の地虫を立ち上げ、蠢動(しゅんどう)していく。 
 
ほんのひと押しの揺らぎで崩れてしまうような、ちっぽけなガラスの秩序に棲んでいても、卑屈さだけは、絶対、晒さない。 


人生は賭博である。 

 
この反転思考を、最初で最後の供給源と化す。 
 
一切は、この日を抜けること。 
 
一切は、この日に、ありったけの養分を満たすこと。 
 
この日だけが、全てなのだ。
 
全ての不幸は不幸の現実からではなく、不幸であるという、自我なる厄介なものに張りついた集合的なイメージによって、いつも其処彼処(そこかしこ)に存在してしまうのだ。
 
不幸という感情のイメージが、不幸の全てなのである。 
 
この感情を反転させればいい。
 
 私たちの内側では、常にイメージだけが勝手に動き回っている。 
 
しかし、事態は全く変わっていない。 
 
事態に向うイメージの差異によって、不安の測定値が揺れ動くのだ。
 
イメージを変えるのは、事態から受け取る選択的情報の重量感の落差にある。 
 
不安であればあるほどに、情報の確実性が低下するから、情報もまた、イメージの束の中に収斂されてしまうのである。  
 
結局、イメージが無秩序に自己増殖してしまうから、不安の連鎖が切れにくくなるのだ。 
 
イメージの自己増殖が果たす不安の連鎖によって、いつしか人は、予想だにしない最悪のイメージの世界に持っていかれてしまうのである。
 
 苦しいときは、苦しみ抜くしかないのだ。 
 
苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて、それで果ててしまったら、それはそれで仕方ないのだ。 


苦悩の旅に予定調和はない。 

 
行ったら、抜け切るしかないのだ。 
 
芳醇であると信じたい、小さくも、「今、このとき」だけは、確かに救われるだろう世界を、己が世界とせよ。 
 
雄々しく立ち上げることだけが人生の輝きではない。 


辛さと娯楽を内側で安定的に共存させる能力の高さこそ、幸福をミスリードしない者の小さな輝きなのだ。


その輝きを信じて、「今、このとき」を抜け切っていく。

 
これが、偽らざる私の心境である。 
 
 

心の風景 「『それがどうした』 ―― 死の際(きわ)で青年司祭の放った究極のメッセージが、抑鬱状態を噛み切り、解き放つ」より抜粋http://www.freezilx2g.com/2016/06/blog-post.html