リアリティのダンス(‘13) アレハンドロ・ホドロフスキー <「家族のスターリン」を延長できなかった男から解放され、「ただ、風だけが通り過ぎる」記憶を再構成する映画作家の物語>

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1  「未来の君は、すでに君自身だ。苦しみに感謝しなさい。そのおかげで、いつか私になる。幻想に身を委ねなさい。生きるのだ」
 
 
  
 「お金は血なり、循環すれば活力になる。お金はキリストであり、分かち合えば祝福される。お金はブッダであり、働かなければ得られない。この世の花を咲かすために、お金を使う者には光を与え、冨と魂を取り違え、慢心する者を滅ぼす。お金と人の意識はよく似ていて、意識と死も、よく似ている。死と富も、よく似ている」
 
ホドロフスキー監督自身による、凡庸な構図の提示から開かれる「拝金主義」に対する批判だが、必ずしも、映像総体を貫流する基幹メッセージになっていないが、「分かち合わなければ価値はない」と言うホドロフスキー監督の言葉を聞く限り、物語の伏流水になっていた事実は否定しがたいだろう。
 
「初頭効果」(第一印象効果)を言えば、「第八芸術」(無声映画)と区別して、「第九芸術」とも呼称される発声映画(トーキー)が、複数の分野の芸術の混交によって創造される「総合芸術」である事実を、これほど体感させてくれる映像も滅多にない。
 
「何でもあり」なのだ。
 
 
―― 以下、梗概と批評。
 


議会主導の政治が相応に確立されていたチリでの、軍保守派によるクーデターが惹起した1920年台を背景に、「再構成的想起」(後述)による「家族の再生」をテーマにした物語は開かれていく。

 
時のイバニェス政権は世界恐慌で大打撃を受け、1931年に崩壊するまで、公共事業を中心にした経済政策で権力を維持していた。
 
ロシア系ユダヤ人移民の厳格なコミュニストを父に持つアレハンドロ・ホドロフスキー少年(以下、アレハンドロ)が、「一粒の雨を数世紀待っている」(ホドロフスキー監督のモノローグ)チリ北部のトコピージャという鉱山の町を舞台に、感性豊かな自我を育んでいたのは、まさに、このイバニェス政権下であった。
 
サーカス芸人だった父・ハイメの職業は、妻と共に、「ウクライナ商会」という婦人雑貨の店を営んでいた。
「醜いユダヤ人」と軽蔑され、高い鼻と白い肌によって「ピノキオ」と仇名されるアレハンドロは、学校でも、いじめのターゲットにされていた。
 
また、酒樽に落ちて焼け死んだ自分の父親を忘れられず、あろうことか、アレハンドロを父親と思い込んでいいる母・サラからは、常にオペラの歌唱で、「私の父」と呼ばれる始末。
 
優しい母と違って、アレハンドロの父・ハイメは、少年の成長の大きな壁になっていた。
 
店の壁の中央にスターリンの大きな肖像画を飾る暴力的な父・ハイメから、母の望みで、金髪の鬘(かつら)をするアレハンドロに男らしさを望むあまり、理容院に行かされて、その鬘を剥(は)がされ、痛みに耐えるための暴行を受けた挙句、その暴行で折れた歯を治療するために、麻酔なしで治療を受けさせられるのだ。
 
「痛みは意志で抑えられる」
 
その際の、ハイメの言葉である。
 
そればかりではない。
 
海辺で、アレハンドロが仏教行者と会ったことに腹を立て、無神論を暴力的に押し付けるのだ。
 
そして、赤い靴を買ってもらった条件に、トコピージャ消防団のマスコットにされるアレハンドロ。
 
その赤い靴を、靴磨きの貧しい少年に渡してしまうアレハンドロの優しさは際立っていた。
 
ところが、靴磨きの少年は、赤い靴を履いていたために、濡れた岩場で足を滑らせ、海で溺れて死んでしまうのだ。
 
その凄惨な事故の現実を知り、悲嘆に暮れるアレハンドロ。
 
学校でも孤立し、自分の居場所が見つからないアレハンドロの意識は、今や、宙に浮いていた。
 
そんな折、街にペストが蔓延し、住民たちはパニックに襲われる。
 
人智を超えた破壊力を見せつける、「エピデミック」(特定の地域で流行する感染症)の渦中でペストに罹患し、何もできずに倒れている夫・ハイメに向かって、神に祈りながら、「聖水」(放尿)を放出する妻・サラ。
 
「俺は根無し草だ。ここは俺の国じゃない」
 
元気を取り戻したハイメはサラに感謝しつつ、そこだけは、はっきりと言い切った。
 
「貧しい人々を救うんだ。チリは独裁国家のままではいけない。サンティアゴへ暗殺に行く」
 
かくて、イバニェス大統領暗殺のために、妻子に送られ、旅立つハイメ。
 
しかし、犬の仮装大会の場で、イバニェス大統領を仲間の暗殺から阻止し、その命を救ったことから、ハイメの運命は変容していく。
 
イバニェス大統領から褒美を受ける条件で、自ら望み、馬の世話役になるに至るのだ。
 
馬丁になったハイメは、イバニェスの葦毛(あしげ)の愛馬・ブセファロの世話をするが、愛馬を大切にする大統領を目の当たりにして、なお、そのイバニェスをターゲットにするハイメの暗殺計画は頓挫する。
 
その代行として、ハイメが遂行したのは、ブセファロに毒草を食べさせ、死なせる行為だった。
 
衝撃を受けるイバニェスは、ハイメの拳銃を使って、嗚咽の中でブセファロを射殺する。
 
一方、父親のいない家庭で夜を過ごす不安や、相変わらず、ユダヤ人差別を被弾しているアレハンドロの心の空白を埋めたのは、信仰厚い母・サラから様々な儀礼を受け、くすんだ少年期の孤独を浄化していく。
 
母の存在だけが、感性豊かな少年の心の拠り所だった。
 
他方、ブセファロの死を契機に、放浪の旅に出て、その手が麻痺した不自由な手(イバニェス暗殺に際し、緊張感のあまり麻痺)に悩むハイメは記憶喪失症になっていて、「背骨が曲がった女性」(せむし)に救われていた。
 
記憶を取り戻したハイメは、その「背骨が曲がった女性」から愛の告白を受ける。
 
しかし、その運命を怖れていたかのように、彼女が縊首(いしゅ)する現場を目の当たりにし、衝撃を受けるハイメ。
 
「人殺し」扱いされたハイメが「聖なる材木工房」のホセと出会ったのは、その直後だった。
 
ホセを「聖者」と呼び、彼の親切な行為に感謝する。
 
「打ちのめされ、悔いた人は軽蔑しません」
 
旧約聖書詩篇51篇)の言葉を引用し、今や、「寄る辺なき関係状況」(私の「孤独」の定義)に捕捉された男の苦悩を癒すホセ。
 
決定的な悲嘆に暮れているとき、イデオロギーの縛りでしかない無神論などは、呆気なく砕かれてしまうのか。
 
大恩人のホセが急死したのは、「大いなる祈り」のピークのときだった。
 
それにしても、一人の人間の〈生〉を繋ぐ状況下で頻発する、他者の〈死〉の意味とは、一体、何を意味するのか。
 
ハイメの〈生〉には、自らを救う他者の〈死〉を不可避としてしまうというパラドックスこそ、「再構成的想起」による「家族の再生」をテーマにした物語を収斂させる上で、そこだけは、どうしても通過せねばならないレガシーコストだったのか。
 
いずれにせよ、この辺りは本稿の肝になると考えるので、後述したい。
 
―― 物語を続ける。
 
コミュニストと看做(みな)され、ナチの拷問に被弾するハイメが、イバニェス政権の崩壊の一報を「同志」と呼ぶコミュニストの組織から受け、イバニェス暗殺に打って出たハイメの長旅は終焉する。
 
この間、成長したアレハンドロと、最愛の妻・サラのもとに帰還するハイメ。
 
「無駄に犠牲を払わせた。愛される価値もない。俺は臆病者だ」
 
嗚咽しながら漏らすハイメの懐に、自ら飛び込んでいくアレハンドロ。
 
「父さんは誰よりも強い!男は怖がらない」
 
その時のアレハンドロの言葉である。
 
いつものように、一切を受け入れるサラ。
 
「独裁者の仮装をして、生きてきたのよ」
 
スターリンの肖像をハイメの肖像に代えて、それをハイメに撃ち抜く行為を求めるサラの強靭さが際立っていた。
 
かくて、麻痺したハイメの手が復元するに至るのだ。
 
まもなく、トコピージャの町を去っていく家族。
 
「過去との決別を感じ、大人の身体に着陸し、辛い年月の重さに耐えても、心の中にはまだ少年がいる。まるで聖体のように、白いカナリアのように、ダイアモンドのように、壁のない明晰さのように、開かれたドアと窓から、風が通り抜ける。ただ風が、風だけが通り過ぎる」
 
情緒的なラストシーンもまた、最後まで、ファンタスティックな映像を提示し続けたホドロフスキー監督のモノローグで括られていった。
 
 


人生論的映画評論・続/リアリティのダンス(‘13) アレハンドロ・ホドロフスキー <「家族のスターリン」を延長できなかった男から解放され、「ただ、風だけが通り過ぎる」記憶を再構成する映画作家の物語> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2016/05/13.html