1 ヒューリスティックとバイアスに埋め尽くされている
私たち人間は、記憶から容易に呼び出せる情報を、相対的に重要だと評価する傾向があるが、私たちのこの「呼び出しやすさ」は、メディアに取り上げられるかどうかで決まってしまうことが多い。
頻繁に報道される事柄は、他の末梢的な情報が消え失せた後まで、暫時(ざんじ)、記憶に残る。
その一方で、メディアが報道しようと考えるのは、現在、一般市民が興味を持っているだろうと彼らが判断した事柄である。
これに対して、重要だが、ドラマ性に乏しく、一般市民を興奮させる要素に欠ける事柄、例えば、教育水準の低下だとか、高齢者に対する医療資源の過剰投資といった重要な問題は、殆ど報道されないのだ。
これが、メディアの本質である。
常に、メディア(特にテレビメディアで顕著)は商品価値の高い対象を特化して選ぶからである。
後述するが、メディアが発信する情報は、アメリカの認知心理学者・ダニエル・カーネマンが言うところの、「システム1」(「速い思考」)に偏り過ぎるという重大な瑕疵を持っている。
それ故、メディア・リテラシー(メディアが発信する情報を評価・識別する能力)の重要性について、繰り返し言及してきた次第である。(注)
ヒューリスティックとバイアスについての共同研究で有名な、イスラエルの経済学者・エイモス・トヴェルスキーとダニエル・カーネマンによると、ヒューリスティックには、以下の3つ面があると指摘する。
①典型的と思われるものを判断に利用する「代表性」。
②日常的に簡単に利用できる情報で判断してしまう「利用可能性」。
③最初に示された特定の数値などに縛られてしまう「固着性」。
言葉を変えれば、「代表性」は、物事をステレオタイプ的に決めつけてしまうこと。
「利用可能性」は、僅かな情報で判断してしまうこと。
「固着性」は、提示された特定の情報が印象に残り、判断に影響を及ぼす「アンカリング効果」のこと。
ここで言う「認知バイアス」とは、対象を評価する際に、自分の利害・希望に沿った方向に考えが歪められたり、対象の目立ちやすい特徴に引き摺られて、他の特徴についての評価が歪められたりというような、往々にして見られる現象のこと。
従って、社会心理学の重要な概念である「正常性バイアス」=「日常性バイアス」とは、「正常化の偏見」とも言われているように、予期せぬ変化や異常な刺激に対して、心が過剰に反応しないようにネガティブな情報を軽視してしまう心理のことだが、本物の危機に遭遇しても、「騒ぐほどのものではない」などと思い込み、逃げ遅れてしまう類いの行為に振れていくので厄介なのだ。
「自己奉仕的バイアス」とは、成功した時は自分に、失敗した時は外部要因に帰属させること。
両者とも問題解決状況において、無意識下で処理される反応図式であるがために、意識的な修正が効きにくく、場合によっては非適合的であり、「潜在認知」に左右されやすいという側面を有している。
「潜在認知」とは、自分では気がつかない「サブリミナル知覚」(意識されないレベルで呈示された刺激による影響=「サブリミナル効果」を知覚すること)や、知覚内容や行動内容は意識に上っていても、その原因を把握できなかったり、或いは、その原因について誤った考えを抱いてしまったり、因果関係それ自身が朦朧(もうろう)としてしまったりというケースや、学習が進行していることに気が付かない「潜在学習」などを指す。
潜在的な情報処理が優先する形で人間の感情が発現すると言われ、それが自覚されるのは、常に事態が惹起した後のこととされるが、当然のことながら、その強度の差こそあれ、情報処理の全てのプロセスに「感情混入」が含まれないことはない。
私たちは、自己意志によって物事を処理し、決定していると思い込んでいるが、実際は、無自覚な情動に導かれる形で、事態の処理・決定を遂行しているケースがあまりに多い現象を認めざるを得ないだろう。
私たちの生活はサブリミナルな状態で、情動の自覚がないまま規定されているのである。
(注)OECD(経済協力開発機構)が、義務教育修了段階(15歳)において、3年ごとに実施している国際学力調査(PISA)の2015年調査の結果が発表されたが、日本はトップクラスでありながら、肝心の読解力、数学的リテラシー(応用力)、科学的リテラシーの3分野の結果には目立った低下がみられた。このリテラシーの不足は、メディア・リテラシーの脆弱さに繋がるだけに看過できないものと言える。
2 「システム1」と「システム2」 ―― 私たちの思考が持つ二つの「システム」
ここから、テーマに沿って言及していく。
世界は予測不能なのだから、予測エラーは避けられないという現実 ―― この認識が前提になっている。
専門的スキルに裏付けられた精度の高い直感は取り上げられず、判断のヒューリスティクスは「きわめて有用だが、ときに重大な系統的エラーにつながる」という粗鬆(そしょう)な理解に留まっていたというのが、カーネマンの把握だった。
この結果、直感的な判断や選択には専門的なスキルから導かれるものと、ヒューリスティクスに基づくものがあるという、バランスのとれた全体像を描き出せるようになった。
心理学では、魔法のように見える「直感」も魔法とは見なさないのである。
「状況が手がかりを与える。この手がかりをもとに、専門家は記憶に蓄積された情報を呼び出す。そして、情報が答えを与えてくれるのだ。直感とは、認識以上でも以下でもない」(「psychological science」の学術記事より)
20世紀最大級の科学者の一人とも言われ、意思決定過程の研究を行なっている、アメリカの認知心理学者・ハーバート・サイモンの含蓄のある言葉である。
初めて遭遇する様相の中に、慣れ親しんだ要素を見つけ、それに対して、適切な行動を起こすことを学んだ学習の集積によって、ここぞという時の局面で、有用な「直感」が育まれる。
優れた直感的判断は、まさに、犬の「ワンワン」という鳴き声と同様に、素早く浮かんでくるのである。
困難な問題に直面したとき、私たちは、しばしば簡単な問題に答えて、安々と済ましてしまう。
しかも、問題を置き換えたことに、大抵は気づいていないのだ。
直感的解決の探索は自動的に行われるが、時に失敗し、専門的スキルによる解決も、ヒューリスティクな解決も全く浮かんでこないことがある。
そのようなケースでは、大抵、私たちは、より多くの時間をかけて、頭を使う「熟慮思考」へとスイッチを切り替える。
これが、「遅い思考」(スロー・シンキング)である。
一方、「速い思考」(ファスト・シンキング)には、専門知識、及びヒューリスティクによる様々な「直感的思考」のほか、知覚と記憶という自動的な知的活動が含まれる。
例えば、机の上にデスクライト(照明)があると教えてくれるのが「知覚」、アメリカ合衆国の首都・ワシントンD.C.(「ワシントン・コロンビア特別行政地区」であって、西海岸最北部のワシントン州ではない)の名を、正確に思い出させてくれるのは「記憶」である。
この「速い思考」と「遅い思考」の違いは、過去25年にわたって、多くの心理学者が研究してきたが、カーネマンによると、これを「システム1」と「システム2」という、二つの主体に似せて説明する。
「速い思考」を行う「システム1」、「遅い思考」を行うのが「システム2」である。
そしてカーネマンは、「直感的思考」と「熟慮思考」の特徴を、私たちの中に潜む、二人の人物の特徴や傾向のように扱っている。
最近の研究成果によれば、経験から学んだことよりも、直感的な「システム1」の方が影響力が強い事実も分っている。
つまり、私たちの多くの選択や判断の背後にあるのは、「システム1」だということである。
この「システム1」の場合、脳内だけのことではなく、身体も関わってくる。
瞳孔が広がり、筋肉は緊張し、血圧は上がり、心拍数も上がる。
作業が終わった瞬間、瞳孔は元の大きさに戻るという訳である。
「システム1」は自動的に高速で働き、努力はまったく不要か、必要であっても僅かである。
また、自分の方からコントロールしているという感覚は一切ないのだ。
それに対して、「システム2」は複雑な計算など、頭を使わなければ困難な知的活動に、相当程度の注意を割り振っていく。
思うに、この二つのシステムの働きを客観的にみるとき、私たちは恰(あたか)も、二人の登場人物が出てくる心理劇を読んでいるように感じるかも知れない。
自分自身について考えるとき、私たちは「システム2」を使い、自分の考えを抱懐し、自ら選択し、何をどう考え、行動するかという一連の論理的な知的過程を、まさに、自己認識するのである。
「システム2」は、自分こそが行動の主体だと考えているだろうが、その主人公は自動的な「システム1」の方なのだ。
「システム1」は何の努力もせずに、印象や感覚を生み出し、この印象や感覚が、「システム2」の形成する明確な意見や、計画的な選択の重要な材料となる。
だからこそ、「システム1」の自動運転が生み出すアイディアのパターンは、驚くほど複雑になっている。
だが、一連の段階を踏み、順序立てて思考を練り上げられるのは、スピードの遅い「システム2」だけである。
「システム2」は、「システム1」の自由奔放な衝動や連想を支配したり、退けたりすることができるのである。
心の風景 「人はなぜ、分ったつもりになれるのか ―― 或いは、現代心理学の最前線・その風景の広がり」より抜粋http://www.freezilx2g.com/2016/12/blog-post_23.html