1 「覚悟を括り、周りの鋭角的な視線に心が振り回されることなく、動じない態度」 ―― これが「開き直りの心理学」の極意である
「あの時の僕は明らかに平常心ではなかった。優勝決定戦という重圧を意識しないようにしたつもりだったが、やはりどこかで微妙に感じ取っていたらしい。(略)落合さんだけには打たれたくないという気持ちが、投球に力みをもたらせていたのだ」(「悔いは、あります」(今中慎二著 株式会社ザ・マサダ刊)
この言葉の主は、1990年代に、中日ドラゴンズの若きエース左腕として活躍したプロ野球選手・今中慎二(現在、NHKの野球解説者/以下、敬称略)。
古い話で恐縮するが、背景になっているのは、巨人対中日の「セ・リーグ優勝をかけた最終決戦」という、プロ野球ファンなら誰でも知ってる、「天下分け目」の「10.8決戦」でのこと。
時の長嶋監督が「メイクドラマ」と言い放って、その年(1994年)の流行語大賞になったのは有名な話。
このゲームほど、「開き直る」ことの大切さを教えてくれるエピソードはないと言っていい。
「プレッシャーの心理学」という拙稿でも言及したが、このゲームでの今中慎二の心理の振れ具合について、「開き直りの心理学」という視座で、改めて掘り起こしてみたい。
今、振り返っても、勝ったチームが優勝という、エキサイティングなこの試合に対する盛り上がり方は尋常ではなかった。
「あの時の僕は明らかに平常心ではなかった」と正直に吐露する今中慎二は、「前夜は普段通りに寝つけたし・・・ワイドショーを観ていても緊張することはなかった」と言いながら、なぜ、ゲームで開き直れなかったのだろう。
十分に考えられる原因は、二つある。
「この試合で勝ったら優勝」という、熱狂的な中日ファンからの「期待感」を全身に背負ってしまったこと。
これが一つ。
全身に背負ってしまった「期待感」によって、それまで経験しなかったような、「使命感」とも呼べるような過大な感情が胚胎してしまったこと。
この二つである。
一種異様な雰囲気を醸し出す「期待感」と「使命感」が、今中慎二の心に想像以上のプレッシャーを生んでしまったのではないか。
私の定義によると、プレッシャーとは、「絶対に失敗(敗北)してはならないという意識と、もしかしたら失敗(敗北)するかも知れないという、二つの矛盾した意識が同居するような心理状態」である。
そのため、固有の身体が記憶した高度な技術が、必要以上に沸騰し、白熱的な状況(ゲーム)の中で、心地良き流れを作り出せない不自然さを露呈してしまうのだ。
この二つの矛盾した意識が、自我の統括能力を衰弱させ、均衡を失った命令系統の混乱が、恐らく、神経伝達を無秩序にさせることで、身体が習得したスキルを澱(よど)みなく表出させる機能を阻害してしまうのではないか。
そう、思うのである。
ここで、「10.8決戦」を回顧してみる。
このゲームまで連敗地獄の巨人は、「絶対に負けられない」というプレッシャーを、まさに、負け続けてきたことによって解体できたのである。
「絶対に負けるかも知れない」という意識から、「絶対に」という、凝固したかのような執着心が消えることで、過剰なプレッシャーが中和され、土壇場で開き直れたのである。
凝固した厄介な執着心が消えることで、二つの矛盾した意識が同居する、「プレッシャーの心理学」から解放されたこと ―― これが決定的に大きかった。
一方、逆に開き直って連勝してきた中日は、最終決戦を前にして、初めて、「絶対に負けられない」という意識に搦(から)め捕られてしまった。
そこに、想像の域を遥かに超えたプレッシャーが噴き上げてしまったのだ。
「絶対に負けられない」という意識の発現だけなら、単なる緊張感で済ませたかも知れない。
しかし、そこでの状況は精神的に苛酷であった。
「追い詰められた巨人が、このままで済ますわけがない」
こんな余計な観念も胚胎してしまったのだろう。
多くの場合、こういうとき、人は「敵」の心理状態を、過剰なイメージで結んでしまうものである。
このイメージの過剰な氾濫の中で、中日ナインの中に、「もしかしたら、この試合は負けるかも知れない」とう意識が出来してしまったのである。
得体の知れないプレッシャーが、中日ナインの中に膨張してしまったのだ。
緩慢なプレッシャーの形成なら対応の手立てがあるが、唐突なるプレッシャーの膨張を抑え切る手立ては、安々と見つからない。
しばしば、「ここで勝ったら優勝(中日)」という意識が生む重圧感は、「ここで負けたら、それまでだ」という意識が生む重圧感を上回るのである。
このゲームの帰趨(きすう)は、戦う前に、ほぼ見えていたと言っていい。
あのような状況下で、なぜ、中日は開き直ることを続けられなかったのか。
明らかに、今中慎二投手は、いつもの躍動感を失っていた。
彼の自我は、あの過熱した空気に呑み込まれていたのだ。
前日までの連勝の記憶を忘却し、「敵」への過剰なイメージを捨て、オープン戦のような気楽さでマウンドに立つということ自体、「国民的大イベント」になりつつあった最終決戦の沸点の渦中で、とうてい望むべくもなかった。
ゲームが始まり、2回の表に、巨人の落合選手に、真ん中高めの平凡な甘いストレートを本塁打され、更に、その直後、同点に追いついてもらったにも拘らず、今中投手が、決定的な3点目を許したときの打者もまた、落合選手だった。
同様に、甘いインコースのストレートをタイムリーされて、彼の気持ちは、ここで完全に切れてしまった。
「僕は動揺した。(略)痛かった。気持ちが切れた。ショックは、あまりにも大きかった。努めて平静を装ったつもりだったが、実際はすでに自分をコントロールできなくなっていた」(前掲書)
これも、正直な吐露である。
もう、この時点で、今中慎二投手は、一種異様な雰囲気を醸し出す「期待感」と「使命感」の重圧に呑み込まれ、「開き直りの心理」への変換を、手ずから潰してしまったのである。
このような一種異様な雰囲気の渦中で、「開き直りの心理」への変換を具現することの難しさが、手に取るように分るだろう。
このとき、「期待感」が「外部圧力」になり、「使命感」が「内部圧力」になってしまったからである。
共に、「勝って優勝する」という「義務感」に収斂されるが故に、「負けることが許されない」沸騰する状況の中で、今中慎二投手は、「逃げ場所」を完全に断たれてしまったのだ。
これは、「開き直りの心理」への変換が決定的に頓挫した典型的ケースであった。
思うに、「開き直る」とは、よく言われるように(辞書にも書いてある)、唐突に態度を変えて、太々(ふてぶて)しい態度に居直ることではない。
私の定義では、「覚悟を括り、周りの鋭角的な視線に心が振り回されることなく、動じない態度」 ―― これが「開き直りの心理学」の極意である。
―― 余談だが、ここまで書いていたら、ある女性政治家の凄い言葉を想起した。
「批判なんて、承知の上ですよ。そのうち、東京湾に投げ込まれるかと思っているくらいですから。それくらいの覚悟でやっています。そもそも、都知事選に出るのは落選覚悟だったわけです。今どき、命を狙われることはないわけですから、(逆風の声にも)“それがどうかしましたか?”と言いたいですね」(女性セブン 2017年1月1日号)
「私のライフサイクルでは、10年に1回大爆発することがあるが、今年は大爆発の年」と言ってのけた彼女こそ、「開き直りの心理学」の達人だったわけだ。
後述するが、批判されても動じず、笑みで返すセルフコントロール(自制心)=「熟慮思考」である、「システム2」=「遅い思考」(スロー・シンキング)を駆使する能力の高さこそ、彼女の真骨頂なのだろう。
なぜなら、「開き直りの心理」は、この「システム2」の指示によって、「システム1」=「速い思考」(ファスト・シンキング)に「仕事」をさせることで、自我を安寧に保持する能力の具現化でもあるからだ。
セルフコントロール能力の資源にも限界点があり、この限界点を超えると、「自我消耗」(過度のストレスで、本来の自制心の能力が消耗してしまうこと)を来す。
(2017年1月現在、事実を客観的に報道することよりも、人の心の世界に勝手に入り込み、そこで作ったストーリーで相手を批判するという、殆ど「粗探し」を本業とするかのような各種メディアの根拠の希薄な批判の嵐に晒され続け、「24時間勤務」の苛酷な状態の中で、「自我消耗」を来しやすいようにも見える彼女のセルフコントロール能力の高さが、今、試され続けているようだ。持ち前の強靭な精神力で、この困難な状況を突破して欲しいと願うのみである)