「覚悟」の心理学

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1  決定的状況の中で孤立した男の覚悟が揺れ動き、白昼の戦場に自己投企する
 
 



男はプライドを守りたいだけだった。

 
「敵に後ろを見せたくない」
 
愛するエイミーに、男はそう言い切った。
 
男の名はケイン。
 
結婚式を執り行ったばかりで、自分の後任となる保安官に町の治安を託し、新天地に旅立つところだった。
 
そんな華やいだ雰囲気の中で、駅員がもたらした知らせは、かつて、ケイン保安官の手によって監獄送りにされ、絞首刑になるはずの凶悪なアウトローが、終身刑から更に減刑・釈放され、今、ケインへのリベンジのために戻って来るという最悪の情報だった。
 
それでも旅立ったケインは逡巡した挙句、馬車を途中で止め、反対するエイミーを振り切って、町に引き返したのだ。
 
「私の町だ。友人も多い。自警団を作れば対抗できる」
 
エイミーにそう言ったケインにとって、自らが守り切った町を捨てるという選択肢はあり得なかった。
 
「敵前逃亡した保安官」というレッテルを貼られることを、何より恐れているのだ。
 
しかし、平和主義者のクエーカー教徒の妻は、プライドに固執する夫と訣別し、町を去る決意をする。
 
この時点でのケインの覚悟を支えていたのは、「自警団を作れば対抗できる」というリアリティに依拠したプライドの堅持だった。
 
だが、ケインのこのシナリオが呆気なく崩れたとき、ケインは激しく動揺する。
 
アウトローを裁いた町の裁判官が躊躇(ちゅうちょ)なく去り、副保安官はバッジを返しに来た。
 
3人の舎弟を仲間にしたアウトローと闘う気がなく、ケインの頼みとする友人たちが、次々に自分の巣に戻って行ったのだ。
 
「助っ人が欲しい。多ければ多いほどいい」
 
このケインの呼びかけに、誰も反応しないのだ。
 
反応しない理由は、単にアウトローたちが怖いだけなのに、居留守を使ったり、ケインを罵ることで自分の弱気を誤魔化したり、皆、それぞれ合理的な理由付けを考えて、巧みに安全地帯に逃げていくのである。
 
追い詰められたケインが最後に立ち寄ったのは、もう、そこ以外にない「神の居る場所」=教会だった。
 
しかし、アウトローが駅に着くのに1時間もないのに、教会の男たちは、ケインの依頼に応じるための不毛な議論を開いていくのだ。
 
明らかにそれは、逃げ道を作るための議論だった。
 
「礼を言う」
 
表情を強張(こわば)らせたケインは、その一言を残して、教会を立ち去っていく。
 
決定的状況の中で、ケインは孤立した。
 
決定的状況だからこそ孤立したのである。
 
町を彷徨(さまよ)うケインの焦燥感が、映像に虚しく浮かび上がってきて、殆ど痛々しい限りである。
 
自分は一体、何のために戦うのか。
 
既に、町を守るための「戦い」ではなくなっていた。
 
では、一体何のためか。
 
誇りか。
 
それは無論ある。
 
誇りがなかったら、こんなリスクの高い職業にこだわる必要もなかった。
 
結局、ケインは誇り含みの自己像変化に耐えられなかったのである。
 
自分が自分であることを了解し得るイメージの崩れに耐えられなかったのだ。
 
そして今、ケインは覚悟の内実をシフトさせねばならなかった。
 
町ぐるみで戦うことの覚悟から、一人で戦うことの覚悟にまで昇り切らねばならなかった。
 
この覚悟のシフトを果たさない限り、すぐ先に待つ「戦場」での勝利は覚束ない。
 
「戦場」に向かう以上、勝たねばならない。
 
勝つためには今、覚悟のステップアップを果たすのだ。
 
これがケインに残された僅かな時間の中での、最も重大で、切実で、決定的なテーマになった。
 
では、ケインの覚悟は果たされたか。
 
人は、それほど器用ではない。
 
ほんの少し、人より過ぎた自尊心を持っていたとは言え、それが普通の倫理感覚と人格能力を持つ者の、恐らく、ギリギリの可動ラインであったに違いなかった。
 
ケインの覚悟の奥には、死体になることへの括りがあったはずだ。
 
そこまで突き抜けない限り、自らを最も苛酷な状況に放てる訳がなかったのだ。
 
ケインは死を覚悟して、ゴーストタウンと見紛うような乾いた町の中枢に立った。
 
人々は皆、息を潜めて、そこだけは安全だと信じたい自分の巣に潜り、張り付きながら、灼けつくような白昼の「戦場」に、ギラギラとした視線を投げ入れていた。
 
4人のアウトローが、じりじりと彼に迫って来た。
 
そして1対4の、殆ど絶望的な戦争が、そこに開かれたのである。
 
一発の銃声が、戦争の合図になった。
 
それを耳にした花嫁は、列車から降りた。
 
そして、花嫁は町に戻って行った。
 
夫になる男のことが気になって仕方ないのである。
 
その思いを知らず、今や、花嫁にすら捨てられた孤独な男が、這い蹲(つくば)って闘っていた。
 
灼熱の路上に転がり込んだり、跳ねたり、潜ったり、蹲ったりして、男はなお「戦士」であることを繋いでいたのである。
 
一人、そしてまた一人、「戦士」は敵の死体を増やしていった。
 
花嫁もまた、そこに命を賭けて闘う者しかいない町の中枢に戻っていて、明らかに、夫の「戦争」に加わっていた。
 
この花嫁の機転で、アウトローの二つの死体を加えたとき、戦争は終焉した。
 
花嫁の加担によって真昼の決闘は幕を下ろしたが、この戦争は、どこまでもケインという男の「戦争」だった。 
 
 
 
2  「戦場」を選択し、「戦士」を選択し、「戦闘」を選択した男の絶対状況 
 
 
 
この「真昼の決闘」という曰く付きの映画は、極限状態に呑みこまれた普通の人間が露わにする弱さを、シビアに容赦なく描きつつも、それでも、状況から逃げないギリギリの男の意地をリアルに炙(あぶ)り出していくことで、本当の人間の強さが、自らの弱さを認知したあとの覚悟の内に現れることを訴えているかのようだ。
 
人は皆、恐らく、どこかで少しずつ、認めたくない弱さを持っている。
 
その弱さへの認知の度合いが、不安の大きさを決める。
 
認知が弱いからこそ、見えない不安が広がっていく。
 
それを誤魔化そうと、人は大抵、自分勝手な「物語」に逃げ込んでいく。
 
根拠のない自信や誇りが、かえって人間を駄目にするのである。
 
人間は厄介な動物なのだ。
 
自らの弱さへの正しい認知の中からしか、間断なく迫りくる時代の、目眩(めくるめ)く澎湃(ほうはい)の波動に耐えていく覚悟は生まれない。
 
一切は、この覚悟の中にこそある。
 
真に覚悟する者が最も強い。
 
弱さの中に強さがある。
 
不安に耐える強さこそ、本物の強さである。
 
「真昼の決闘」の主人公の強さもまた、自らの弱さの認知が生んだ覚悟の中から生まれた。
 
「真昼の決闘」は心理学的に言えば、極限状態に捕捉された人間の、その孤独と不安と覚悟についての物語である。 
 
 

心の風景 「覚悟」の心理学より抜粋http://www.freezilx2g.com/2017/01/blog-post_27.html