1 「僕、帰って来たよ。鍵がないから入れない」 ―― ベルリンの夜の街を彷徨した果てに
ほぼ完璧な映画。
主演の少年の圧巻の表現力に舌を巻いた。
この映画ほど、発達心理学の学習の重要性を痛感したことはない。
―― 以下、梗概と批評。
見知らぬ男を家に泊め、交接している母の部屋に、「お腹が空いた」と入室していく10歳の男の子がいる。
男の子の名はジャック。
女に子供がいることを初めて知って、驚く男。
「やきもち?」
そのジャックに、食パンを食べさせながら吐露する、全裸の母・ザンナ。
自分の母の愛を独占できない不安と苛立ちを抱懐しているという一点において、母のこの稚拙な指摘は外れてはいない。
なぜなら、朝帰りの続く「不在の母」に代わって、常に6歳の弟・マヌエルの食事などの世話をする日常性を繋ぐ少年にとって、自分でパンとジュースを飲食することなど、あまりに容易いことだったからである。
だから、母の新しい愛人の衣服を、窓から放り投げてしまう行為に振れてしまうのだ。
怒った男が帰って、その男を母が追う。
明らかに、機嫌を損ねている母が帰宅しても、ジャックを責めることはしない。
ジャックに対する後ろめたさを感じる思いが、彼女なりに持ち得ているのだろう。
これが、若いシングルマザーの母親・ザンナと、年端もいかない二人の兄弟によって構成される家族の様態だった。
しかし、この家族に異変が起こる。
マヌエルを誤って熱湯の風呂に入れ、火傷をさせてしまったジャックが、ネグレクトの疑いで、児童福祉局から呼び出された結果、母親の猛烈な反発を押しのけ、ジャックが施設に入所されるに至るのだ。
ベルリン南西部の施設。
プロの職員の秩序だったそんな施設であっても、年上の少年に虐められたジャックにとって、「施設は自分の居場所ではない」という思いが強い。
「家に帰りたい」とジャック。
「約束したでしょ。ここに慣れるまで帰らないって。夏休みになれば、お母さんに会えるわ」
女性職員の柔和な言葉に納得するジャック。
そして、その日がやってきた。
母が迎えに来る日である。
「迎えに行けない。仕事なの。少し待って。我慢してね。週末はそっちにいて。月曜日まで、二日の辛抱よ。約束する。朝に行くわ」
これが、待ちに待った「迎えの日」の朝の、母・ザンナの答えだった。
マヌエルが、ザンナの知人・カティの家にいることも知らされる。
言葉を失い、悄然とするジャックは、同様に、「居残り組」の少年と川に入るが、再び、彼の虐めのターゲットにされる。
しかし、母の迎えがない苛立ちを、その少年・ダニーロに反撃し、彼を打ちのめしてしまうのだ。
慌てて、走り去っていくジャック。
事件を起こした恐怖によって、施設へ戻れなくなったジャックは、そのまま遁走してしまう。
母と弟に会うための少年の旅が、ここから開かれていく。
ファーストフード店に入り、自宅の母に留守電を入れ、ケバブ・サンド(中東地域で供される)を買い、それにかぶり付く。
ファーストフード店を出て、自宅にまっしぐら。
しかし、家には鍵がかかっていて、中には入れない。
施設の職員が探しにやって来たが、隠れ忍ぶジャック。
「僕、帰って来たよ。話さなきゃいけないことがあるんだ。鍵がないから入れない」
置手紙を残し、母と弟を探す少年の旅が延長されていく。
その直後、マヌエルを預かっているというカティの職場を訪問し、彼女の自宅に直行する。
カティの自宅には男がいたが、明らかに迷惑そうな態度を見せ、マヌエルを放り出す。
今度は、母を探す兄弟の旅が開かれるのだ。
ベルリンの夜の街を彷徨し続ける二人。
母の愛人を訪ねても、全く埒が明かない。
母の携帯にかけても、留守電のまま。
再び自宅に戻るが、相変わらず鍵がかかったままで、今度も、ジャックはメモを残して去っていく。
公園のベンチで寝ていたマヌエルと共に、野外で一夜を過ごすジャック。
翌朝、菓子屋でマヌエルに指示し、菓子を盗み、それを食べる兄弟。
またジャックは、施設で遊んで、失った友人の双眼鏡を返すために、大型商業施設の電気店で双眼鏡を盗み、それが発覚し、必死に逃亡するという事件を起こす。
自宅の前で寝ていたマヌエルを起こし、他人の車で一夜を過ごそうとするが、管理人に咎(とが)められ、ここでも逃亡を余儀なくされる。
3日目の朝がきた。
疲弊し切ったジャックの目から、涙が零れ落ちる。
いよいよ、兄弟の旅が絶望的な雰囲気を醸し出していくのだ。
人生論的映画評論・続/ ぼくらの家路(’13) エドワード・ベルガー <「母を求めて彷徨する3日間」 ―― 射程の見えにくい風景の苛酷さ> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2017/01/13.html