1919年、フランスのベルサイユ宮殿で調印された、第一次大戦の講和条約によって、ドイツは領土の割譲と多額の賠償金の支払いを義務付けられて、その不満からナチスの台頭を招来したと言われるほど苛酷な内容だった。
ドイツを弱体化させることが目的の一つでもあった賠償金の総額は、1320億金マルク(約66億ドル・金相場の換算では、約200兆)という莫大なものとなり、ドイツはこの金額を30年間にわたって外貨での分割払いを負うことになった。
思うに、自分がある人間・集団・組織・民族を嫌うには、当然の如く、嫌うに足る充分な根拠があると確信し、その確信を他者と共有することで、特定他者・集団・民族に対する意識の包囲網を形成せずにはいられないようだ。
この意識の包囲網を、私は「憎悪の共同体」と呼ぶ。
人々の憎悪が集合することは、個人の確信を一段と強化させるから、仮想敵に対する攻撃のリアリティを増幅させていく。
そこに集合した憎悪は何倍ものエネルギーとなって、大挙して仮想敵に襲いかかるのだ。
しかし、憎悪という個人的感情を、他者の類似した感情と繋いでいこうとは決して考えてはならない。
感情を束ねていくことが最も危険なことなのだ。
憎悪を組織した集団が、一番厄介なのである。
憎悪は自己を正当化させ、免罪符にしてくれる。
免罪符にしてくれるから、自分の行動は正しかったと信じることができる。
信じることができるから、自我の安寧を保持し得るのである。
これを、「自己正当化の圧力」と言う。
この「自己正当化の圧力」を推進力にして、ドイツの沸騰し切っている風潮の中で組織が立ち上げられる。
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)であった。
一方、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクの惨殺(スパルタクス団蜂起の鎮圧)と、「ドイツ革命」の挫折(社会主義政権のレーテ共和国の消滅)。
更に、ワイマール体制の脆弱さ(既存政党の議会政治の未熟と民主主義への失望、巨額の賠償金支払い等々)は、ミュンヘン一揆の頓挫を経て復活したナチ党の飛躍的躍進の推進力となって、シュライヒャー内閣(軍人でもあったシュライヒャーは「長いナイフの夜」で、SSによって夫人と共に殺害された)を打倒し、一気に権力掌握に至る。
ドイツ民衆の憎悪を巧みに吸収することで、ナチスは権力基盤の強化を図り、内部に仮想敵を作り出し、それを徹底的に破壊する。
既に「バンベルク会議」(1926年)で、労働者階級に支持を広げていた党内左派(グレゴール・シュトラッサー)との権力闘争を制し、党内独裁権をほぼ確立したヒトラーは、エルンスト・テールマン(ナチス政権の誕生後に強制収容所で殺害)率いるドイツ共産党の軍事組織・「赤色戦線戦士同盟」と私闘を繰り広げていた、SA(突撃隊)の参謀長・エルンスト・レームや、件のグレゴール・シュトラッサーなど、党内外の敵を粛清した「長いナイフの夜」(1934年)の事件によって、ヒトラーの主導権が決定的に確立されるに至る。
1933年2月27日、「国会議事堂放火事件」(オランダ共産党員・ルッベの単独犯行とされるが、ゲーリングはドイツ共産党の犯行と決めつけ、弾圧)によって、20歳以上の男女平等の普通選挙の実施など、当時、最も民主的な憲法と称されたワイマール共和国憲法は死文化され(「完全比例代表制」の弊害である少数政党が乱立し、政権が不安定だった)、その直後の国会議員選挙において、ナチ党は300にも届かんとする議席を得た。
ワイマール共和政を崩壊させ、「来るべき理想の国家」を意味する概念として使用された「第三帝国」の始まりを告げ、国会が行政府に立法権を委譲する「全権委任法」(立法府が行政府に一定の権限を授権する法=「授権法」の典型例)の制定と、最初の強制収容所であるダッハウ強制収容所が設立されたのも、この年、1933年(3月)だった。
既に、再軍備宣言を経由していたナチス・ドイツは、ベルサイユ条約で非武装地帯と定められていたラインラント進駐(1936年)から、「アンシュルッス」(多民族国家であるオーストリアを併合)を断行し、ズデーテン地方を獲得(チェコスロバキア)するに至る。
「背後の一突き」と呼ばれる有名な言葉がある。
「ナチスによるユダヤ人大虐殺」、即ち、世に言う「ホロコースト」(ユダヤ人大虐殺)への重要な転換点の一つとなった、1938年11月9日に惹起した「水晶の夜事件」(クリスタル・ナイト=クリスタル・ナハト)がそれである。
事件の背景にあったのは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人のポーランドへの追放を企図するが、ポーランド政府が拒絶したことで、国境の無人地帯に取り残されたユダヤ人は窮乏を余儀なくされ、餓死者も現出する始末だった。
これが、悍(おぞ)ましい大暴動の始まりになった。
暗殺事件後、ドイツ各地で発生での、民衆の自然発生的暴動を装った「官製暴動」が惹起する。
宣伝相・ヨーゼフ・ゲッベルスの扇動であったとされる。
バーに立ち寄った主人公の青年が、「もう、人間が理解できん。人間の話が分らないんだ」と言い放つ一人の老人と出会い、彼のトラウマと化している話を聞くことになる。
以下、ゆっくりと噛み締めるように語っていく老人の話。
少し長いが、引用する。
「当時は、今と少し違ってた。毎朝、総統に直立不動で敬礼させられたからさ。あちこちに敬礼した。ハイル・ヒトラー!ガキの俺には、意味が分らん。周りの真似をするしかない。夜中に、親父が俺を起こして言ったんだ。“通りへ行くぞ。見せたいものがある”俺は一緒に通りへ出た。親父は俺の手に石を握らせた。“お前の底力を見せてみろ” 親父は自分も石を握り、窓ガラスを打ち破った。まさに、この場所だ。通りは人が大勢いた。今と違って照明もネオンもない。真っ暗闇さ。みんな、窓ガラスに石を投げてたよ。親父は、この店をやった。粉々に打ち砕いてたよ。一面、ガラスの破片ばかり。火事が起こり、炎で照らされ、通りが輝いていた。今でもよく覚えてる。俺は激しく泣き始めた。なぜだと思う?ガラスの破片だらけじゃ、自転車で走れない・・・」
「水晶の夜事件」の苛酷さは、マスヒステリア(集団狂気)と化した無数のドイツ人のヒステリーを生んでいくので、件の老人の少年時代の自我に、決して癒し切れない心的外傷となって張り付いているのだ。
映画的に仮構されたこのエピソードは、労せずして、ナチスの「官製暴動」が民衆のマスヒステリアに膨張してしまう怖さを端的に示している。
当然ながら、この事件を契機に、国外亡命するユダヤ人が急増したが、日常の意識を拡張心理に捕捉される「正常性バイアス」によって、危機が迫っても、「自分だけは大丈夫」という「防衛機制」が働き、何も行動しないユダヤ人が存在したのは事実である。
心の風景 「ナチズム」という妖怪の風景の悍ましさ ―― 或いは、「思考停止」というラベリングの浮薄さ より抜粋http://www.freezilx2g.com/2017/03/blog-post_10.html