嫉妬感情の心理学

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1  嫉妬感情とは何か
 
 
私たちは、自らが心積もりをし、期待していた利益を獲得できなければ、悔しい思いをする。
 
悔しい思いをしても、その思いを推進力にすれば、次の機会に挑戦できる可能性がある。
 
そのように解釈し、一過的に自己完結できる人は幸せである。
 
このレベルの「悔しい思い」で留保できるなら、対他関係において、精神的資源(自制心・意志力という認知資源)を不必要に消耗することがないからである。
 
精神的資源を不必要に消耗することが、人生で最も後悔する事態になるケースがあまりに多いのだ。
 
人間の精神的資源には限りがある ―― この認識が現代心理学の前提にある。
 
「自我消耗」が極端になれば、現実と非現実の境界が曖昧になり、ディストレス(抑制困難なストレス状態)が飽和状態になっていく。
 
しかし、期待していた何某(なにがし)かの利益が特定他者に占有されたと思った時、私たちは、しばしば嫉妬を感じる。
 
この「嫉妬」という感情が、相当に厄介な代物である現実は、多くの人々の経験則であるだろう。
 
ここで言う嫉妬とは、私の定義によれば、愛着・愛情・欲求・拘泥の対象が奪われたと思い込んだ時点から開かれる、不均衡な心的現象に起因する、特定他者への不快、且つ否定的感情の総体である。
 
その「特定他者」が「特定の何か」を占有する状態に、不快、且つ否定的感情を抱懐してしまうのである。
 
これが「嫉妬」である。
 
この厄介な感情が対象にする愛着・愛情・欲求・拘泥は、特定の人物に限定されず、それが物であっても、優越的地位・社会的境遇・精神的営為の能力度であっても、何でもいい。
 
因みに、現代心理学では、嫉妬と羨望が峻別されていて、羨望もまた、「悪性の羨望」と「良性の羨望」の2種類に分けているが、嫉妬と羨望を峻別するのは理解できるとしても、後者を厳密に分ける必要がないと考えているので、この辺りの言及はスルーする。


特定の人物(母の愛着の占有を巡る)に限定された嫉妬の感情は、乳児期の頃から生まれる現象である事実で分るように、表現の様態は違えども、人間なら誰でも持つものである。

 
ヒトに近い霊長類もまた、例外ではない。
 
こうした嫉妬や羨望は、「獲得経済」(狩猟採集経済)の時代の小さな生活集団では、戸田正直が言う、「野生合理性」という感情システムにおいて、テリトリーと利益配分を守るために一定の価値があったが、現代社会では「無用の長物」になっている感がある。
 
ただ、「無用の長物」になっていると言っても、特定他者と自分の優劣度を比較しないようにすることが、殆ど不可能である現実を認知せねばならない。
 
だからこそ、この厄介な感情と上手に付き合う能力の形成が求められるのだ。
 
なぜなら、自らのスキルの向上は、大抵、そのプロセスで特定他者と出会ってしまうから、自らの序列性を測ることで、自己を基準にした他者の優劣度が観念的に把握されざるを得なくなってくるからである。
 
この主観的把握がスキルの前線で他者とクロスするとき、その主観的な序列の感覚が、内側に優劣感情を紡ぎ出し、自分より高いレベルにあると思い込んだ特定他者への劣等意識を感受することで、件の特定他者への不快、且つ否定的感情が生まれ、得てして膨張してしまうのである。
 
この時、嫉妬感情は、良好な人間関係を築く上で大きな障害になっていく。
 
何より厄介なのは、嫉妬感情が膨張していくことによって、自尊感情が抉(えぐ)られていく怖さがあるからだ。
 
私たちの自尊感情は、進化的に発達してきた、人間固有の生き延び戦略の最も重要な「複合的感情」(羞恥心・道徳心など)であり、現実の社会生活への「適応」の重要な指標であるが故に、自尊感情が抉られていく事態が好ましいわけがない。
 

この自尊感情を高めてこそ、「意欲的・積極的」であることができることを考えると、自分自身の価値を観念的に貶(おとし)める嫉妬感情の膨張は、この「意欲的・積極的」な自己評価から離反し、「自己嫌悪無価値感」への下降に引っ張られてしまうので、自らが心積もりをし、期待していた利益を獲得できないのみならず、不必要なまでの「敗北感」を自我に刷り込んでしまう危うさをも孕(はら)むのだ。

 
嫉妬感情の膨張に起因する、この「自己嫌悪無価値感」への下降の恐怖から回避するために、しばしば私たちは、自我防衛の戦略(防衛機制)を仮構していく。
 
本質的に、嫌悪すべき自己の内面と向き合うことを避け、自己が特定の相手(特定他者)に依存しているにも拘らず、相手が自己に依存しているように思い込み、この虚構の観念の延長上に、その相手に同化することで、自己が相手を動かし、支配しようとするような自我防衛の無意識的な心理傾向 ―― これを「投影性同一視」と言う。
 
「私はみんなのために頑張っている。それなのに彼らは自分のことしか考えていない」という、某ブログの説明が分りやすい。
 
また、「特定他者を利用した自己愛」、或いは、「特定他者を利用した自己嫌悪」という風に説明するブログもある。
 
この「投影性同一視」という用語は、ウィーン出身の精神分析家・メラニー・クラインによって紹介された重要な概念である。
 
善悪の問題を抜きにして言えば、私たちの精神世界は、自我がかくも脆弱であっても、防衛機制に潜り込むことによって、無意識的に自己を守り切ってしまうという高度な脳を持ち得ているのである。
 
返す返すも、私たちの精神世界の複雑さにため息が出るほどだ。
 
 
2  「一夫多妻制」に近い婚姻形態だった「獲得経済」(狩猟採集経済)の時代
 
 
人類学上の概念である「狩猟採集時代」は、農耕が開始され(「農耕革命」)、人類が定住生活(「定住革命」)を行うようになった「新石器革命」まで続くに至ったが、それが食料生産の安定化に繋がり、「食料生産革命」とも呼ぶべき大変革を遂げていく。
 
この一連の変革によって、恐らく、気候変動に起因すると思われる、狩猟・採集に依存する慢性的な飢餓状態から人類は脱却していくのである。
 
定住生活への決定的なシフトは、人類の集団・組織化を促進し、村落形成を作り出す。
 
打製石器、骨角器を主な道具とした、動植物の捕獲・採集という「獲得経済」から、動植物の人為的養育・栽培という「生産経済」(牧畜・農耕)へのシフトは、村落を拠点とする安定的な生活の確保を手に入れることを可能にする。
 
この変革が、労働の合間に生じる空白の時間 ―― 即ち、「暇」を生み出し、精神的にも安定するのである。
 
そして、石器を磨き、滑らかに仕上げた道具である「磨製石器」(石皿・磨石・石斧・石棒など)を手に入れることで、「定住農耕社会」の分業化を促進させていく。
 
「定住農耕社会」の分業化によって階級が生まれ、社会構造が複雑化し、経済と技術の水準が進化していった結果、高度に組織化された文明が誕生するのだ。
 
―― ここから、人間の婚姻形態に言及したい。
 
一人が複数の異性と同時に婚姻関係を持つ「複婚」の一種である「乱婚」が、ヒヒ、チンパンジー(雌が複数の雄の子供を儲けている)など霊長類の一部で認められるが、狩猟採集時代の場合、人間の婚姻形態は、「一夫多妻制」に近い形態だったと考えられる。
 
19世紀のハーバート・スペンサーに帰せられる、「社会ダーウィニズム」(社会進化論)が主張したことで「乱婚」説が隆盛を極めたが、今日の科学的知見では、配偶システムとしての「乱婚」説は文化人類学・進化生物学・考古学の立場から支持されていない。
 
成立要因については不分明ながらも、「一夫多妻制」はかなり広範囲に観察されているが、社会の安定が相対的に具現化する近代に入り、「一夫多妻制」が減少していく。
 
但し、イスラム社会の「一夫多妻制」の場合は、経済的扶助手段として導入されたという意味を持つので一般化できないが、今や、「一夫一妻制」が主流となっていくのである。
 
 

心の風景 嫉妬感情の心理学 よりhttp://www.freezilx2g.com/2017/04/blog-post_86.html