ハンセン病差別の暗くて深い闇 ―― その風景の途方もない凄惨さ

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1  日本のアウシュヴィッツ
 
 
  
「私は義憤を感じた。この恥ずべき病者を多くもっていることは文明国の恥である。さらにそれを街頭にさらして何の方法もとらないことは、何という情けないことであろう。 ― 即ちライは、最愛の家族に感染させてその生命をほろぼすとともに,その部落を汚し、村を汚し、地方全体にそのわずらいを及ぼすのである。互にその害を避けるためには早く療養所に入って治療を受け菌を外部に散らさないようにすることである。それが最上の道なのだ。家を潔め、村を浄め,県を清めて国からライをなくしてしまう。そのためには、『一人のライも健康者の中に交じっていてはならないのである』」(ブログ・「心の壁を越えるために」より)
 
これは、生涯をハンセン病の撲滅に挺身(ていしん)し、「救癩(きゅうらい)の父」と崇められていた光田健輔(みつだけんすけ)の自伝・「回春病室」からの一節である。
 
内務省(現在で言えば、総務省警察庁国土交通省厚生労働省を統括した一大官庁)衛生局が、「癩の根絶策」を発表したのが1930年。
 
「癩予防ニ関スル件」の大幅な改正案が可決後、法律の名称も「癩予防法」と変わる。
 
1931年のことである。
 
岡山県長島に開園した最初の国立療養所・「長島愛生園」(ながしまあいせいえん)の光田健輔園長の主導で、患者の隔離収容が開始されていく。
 
隔離収容の対象者が全患者となったという意味で、この「癩予防法」への改正は、日本のハンセン病対策の大きな転換点となる。
 
満州事変に突入したこの年、「絶対隔離」という優生思想が、我が国で明瞭に制度化されたのである。
 
その後の日本の、敗戦までの「15年戦争」を通して、ハンセン病対策も、心身ともに優秀な国民の創出を目指す、「優生政策」の一環に位置付けられていったからである。
 
厚生省(現在の厚生労働省)が、「患者収容の完全を期せんがためには、いわゆる無癩運動の徹底を必要なりと認む」という指示を、各都道府県に出したのが1940年。
 
その結果、各地方自治体は「無癩県運動」を展開し、全国津々浦々で、「患者狩り」を行い、ハンセン病療養所に押し込み、隔離政策によるハンセン病絶滅政策が断行されるに至る。
 
かくて、全国に国立療養所が配置され、全ての患者を強制的に入所させる体制が作られていく。
 
この運動によって、警察や保健行政機関をはじめ、学校現場、地域住民がハンセン病患者の発見、通報、収容促進の役目を担い、その過程で、「癩は恐ろしい伝染病」という、誤った認識が社会に植えつけられていくのだ。
 
当然の如く、ハンセン病に対する偏見・差別や忌避感が定着し、患者は療養所以外に居場所を失い、その家族までもが地域から排除され、言語に絶する差別を被弾していったのである。
 
従って、冒頭の「回春病室」が「無癩県運動」を主導する重要な記述である所以である。
 
(付言すれば、1915年に、光田健輔が内務省に提出した「癩予防ニ関スル意見」によると、「絶海ノ孤島」に隔離を主張していた事実が分っていて、そこで、彼が書いた一文には、「絶海ノ孤島ニ送リテ逃走ノ念ヲ絶ツニ如クハナシ」とあった)
 
この流れの中で、「小島の春現象」が沸き起こる。
 
「国立療養所長島愛生園」のクリスチャンのハンセン病医であり、ベストセラー手記である「小島の春」の作者・小川正子の登場と、その映画化(製作準備は極秘裏に進められた)によって、軍国日本の「銃後のモデル」としての、正子の偶像化が生まれ、絶賛の嵐に包まれた(1940年度キネ旬1位)。
 
結果的に、光田健輔は癩患者の優生手術(断種/1940年の「国民優生法」によって定着)を正当化し、「無癩県運動」を活性化させたというプロパガンダ批判があるが、「救癩の情熱は冷めやらない、典型的な人間主義的理想像を生きた人」(『小島の春』断章/文化人類学者・池田光穂)という評価もある。
 
ハンセン病対策が、民間による慈善事業から国家による統治手段として位置づけられるようになった時、女性の領域と位置づけられてきた慈愛の精神と実践もまた、国家制度に組み込まれてゆくこと」(前掲ブログ)になり、彼女の仕事が中国・四国地方の村々を定期的に巡回検診することで、より多くの病者を発見する任務を負っていくのは、時代の宿命であったと言える。
 
1941年時点で、生々しい批評を寄せた人物として有名なのは、伊丹万作伊丹十三の父で、「日本のルネ・クレール」と呼ばれた知性派監督)その人である。
 
「いったい癩はどこにあるのだ。決してそれは瀬戸内海の美しい小さい島にあるのではない。それは疑いもなく諸君の隣りにあるのだ。遠い国のできごとを見るようなつもりで映画を見て泣いてなんぞいられるわけのものではないのだ。(略)現在のところ我々が癩問題に対する唯一の正しい態度は、隔離政策の徹底によって癩を社会的に解決しようとする意志に協力する立場をとる以外にはあり得ないと思う」(「映画と癩の問題 伊丹万作『映画評論』1941年5月号」)
 
ここに書かれている世界こそ、まさに、国策としての強制隔離政策を推進した時代の風景を検証するものだった。
 
戦後になっても、1948年に、ハンセン病が対象にされた「優生保護法」が成立、1953年には、ハンセン病患者たちの猛反対を押し切って(「らい予防法」改正闘争)、「差別からの保護」という理由付けを含む欺瞞的な「らい予防法」が成立するが、この法律によって、戦前からの隔離政策を継続させ、ハンセン病に対する偏見や差別はいよいよ定着し、療養所の外で暮らしていた患者の「ハンセン病隠し」が常態化するのである。
 
この「らい予防法」が廃止されたのが、1996年という事実に驚かされる。(「自社さ連立政権」の菅直人厚生大臣が、「らい予防法」の廃止に尽力)
 
何より、入所者の高齢化が進み、後遺症による重い身体障害を持つ患者もいて、療養所外で暮らすことの難しさがある。
 
そして、最も由々しき問題は、ハンセン病特効薬であるプロミンの開発(1943年にアメリカで合成された新薬だが、戦時下のため、日本では1947年に治験)後も、プロミンの静脈注射がハンセン病治療に有効であることが確認されながら、戦前からの患者隔離政策を継続させたという歴然とした事実である。
 

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