受難の文学としての「源氏物語」 ―― その解放の雄叫び

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1  受難の文学としての「源氏物語」 
―― その解放の雄叫び
 
 
  
日本近代史の中で、「源氏物語」は受難の文学だった。
 
「庶民感覚から遊離した『有閑階級の文学』」という理由で、プロレタリア文学から批判の矛先を向けられ、「ごく普通の人生を生きる者としての人格性の欠如」という理由で、学習院出身者が集合した白樺派文学から批判される始末。
 
そして極め付けは、谷崎潤一郎が全訳した「源氏物語」。
 
ここに興味深いエピソードがある。
 
「実は谷崎の絶筆となった随筆『にくまれ口』は、物語の『偉大さ』を認めてはいたものの、光源氏の悪口がつづられていて、世間をびっくりさせた。伊吹さんは、悪口はホンネだと感じた。光源氏のことを『あんなウソつき男』は大嫌いだと、何度も谷崎から聞いていたのだ。(略)その理由のひとつに、旧訳の削除問題がある。軍事色が強くなった時期に刊行された旧訳は、物語の核にあたる光源氏と父帝の后(きさき)である藤壺の禁断の恋がばっさり削られていたのだ。(略)世間の反応をおそれた谷崎は、山田よりも広範囲に削除していた。天皇関係以外の個所でも数多く削除していた」(asahi.com 2009年5月30日)
 
ここで出てきた「山田」とは、校閲した国語学者のことで、「全身国粋主義者」。
 
この出典は、晩年の谷崎の口述筆記をしたエッセイスト・伊吹和子さんへのインタビュー記事からの抜粋だが、この一文を読む限り、表現の自由が著しく限定された時代の暗鬱な状況下にあって、世間の空気に敏感に反応し、自らの表現世界を縮小化せざるを得なかった谷崎の屈折した心理が窺える。
 
戦中から戦後にかけて、自らのライフワークとも言える、「細雪」と「源氏物語」(現代語訳)の執筆作業において、当局からの掲載禁止の圧力を受けながらも断続的に書き継いで、完成にこぎつけるに至ったエネルギーを支えたのは、「大谷崎(おおたにざき)」と称された文学者としての意地であったに違いない。
 
奢侈な場面の多さが理由で、二度に及ぶ掲載禁止の処分を受けた「細雪」がそうであったように、「源氏物語」(現代語訳)においてもまた、「禁断の恋」など、中宮の密通に関わる部分など皇室に関した部分は削除されていて、天皇に関わる「不穏当」な個所が問題視されたのである。
 
かくて、さしもの谷崎は、インタビュー記事にあるように、光源氏藤壺の不義密通と懐妊に関する個所を、自ら広範囲に削除して訳さざるを得なかった。
 
自らの表現世界を縮小化せざるを得なかった谷崎の屈折した心理が、解放の出口を破壊的に穿つかの如く想像させしめる仕事が、映画「源氏物語」(吉村公三郎監督)の監修を担当した谷崎自身の表現的営為だったのか。
 
ここで描かれていた「源氏物語」は、短い絡みだったが、光源氏藤壺の不義密通の場面において、観る者に最もエロティシズムを印象付ける描写になっていたのである。
 
それは、受難の文学としての「源氏物語」が、遂に時代の壁を突き抜けて、「日本映画界に不滅の金字塔を築く大映の映画化!日本文学史に燦たる光芒を放つ名作『源氏物語』」(キネマ旬報 24号・1951年10月1日)とか、「7大スタアが目も綾に織りなす悲恋絵巻!大映が世界に誇る歴史的壮挙!」(朝日新聞・1951年10月31日)などという、大仰な歓迎ぶりを被浴するに至ったのである。
 
ともあれ、そんな仰々しいキャッチコピーとは無縁に、戦後5年足らずの間に製作された、映画「源氏物語」の印象が、良くも悪くも、「稀代のプレイボーイ」、或いは、「スーパーヒーロー光源氏」などという把握のうちに受容しにくいのは、明らかに、新藤兼人(脚本)と吉村公三郎の共同作業による「源氏物語」であって、且つ、その監修が谷崎潤一郎であることに大いに関係するだろう。
 
映画「源氏物語」では、物語の核心であり、桐壺帝と桐壺更衣(きりつぼのこうい/主人公・光源氏の母)の子で、桐壺帝第二皇子である光源氏の女性遍歴の重要な因子となった、藤壺中宮(以下、藤壺中宮とは天皇の妻たちの呼称)との関係が濃密に描かれていたばかりか、優雅な貴婦人ながら、源氏への過剰な情愛に端を発する嫉妬心を持つ、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ/光源氏の愛人)による葵の上(光源氏の最初の正妻)に対する呪殺の描写(六条御息所との有名な「車争い」によって怨まれ、呪殺されるエピソード)は全面カットされていた。
 
更に、葵の上の兄であり、源氏の親友の頭中将(とうのちゅうじょう)が言い放った、「加持祈祷で人の命は救えない」という言葉にあるように、明らかに映画の作り手は、この物語を近代的な解釈で咀嚼し、源氏を「時代に抗する反逆児」の如き人物造形として構築したのである。
 
そればかりではない。
 
後に事実上の正妻となり、最も寵愛されたとは言え、藤壺の縁戚に当たるという理由もあって、片田舎の邸で琴を弾く、年若い紫の上(若紫)への乱暴極まる誘拐描写や、左遷された須磨で、右大臣から源氏の命が繰り返し狙われるテロに遭って、怯える男の裸形の人間性のリアルな描写や、更に、「淡路の上と良成を巡る不義事件」(後述)をみても判然とするように、自分が寵愛する淡路の上と男女関係を延長させていた良成を斬り殺そうとする物騒なシーンなど、何かそこだけ特定的に切り取ったかのように、「特権的貴族の奢り」を印象付けるシーンの連射でもあった。
 
まるでそれらのエピソードは、当時の貴族社会で「面白い小説」として広く読まれていたにも拘らず、その表現に関わる者たちの情念の集合による、「受難の文学としての『源氏物語』の解放の雄叫び」とも思える弾け方でもあった。
 
―― ここで、我が国の近代史にあって、受難の文学だった「源氏物語」の作者・紫式部について、簡単に言及しておこう。
 
もとより、「源氏物語」は日本文学史上の最高傑作と評価されながらも、母系制の社会制度が濃密な平安時代中期頃に成立した、日本の長編小説であるという事実が分かっているのみで、未だに、「桐壺」(きりつぼ)から「夢浮橋」(ゆめのうきはし)に及ぶ、三部構成(異論あり)の「源氏物語」54帖(じょう)全体の正確な著者・題名不詳の文学と言わざるを得ないのである(「宇治十帖」と呼ばれる最後の10帖の異質性の問題)。
 
それでも、当時、摂関政治 藤原氏が娘を天皇の妻とし、その子を天皇にすることで政治の実権を独占)を支えたばかりか、華麗な文芸サロンを立ち上げていた、一条天皇中宮(皇后のこと)・藤原彰子(ふじわらのしょうし/藤原道長の長女)の女房(貴族社会での女性使用人)として仕えた、紫式部が作者というのが否定しがたい通説である。
 
ここで言う藤原道長とは、言うまでもなく、激しい権力闘争を制し、藤原氏全盛期の最頂点に立った人物。
 
そして、この道長の長女・彰子に仕えている間に、「源氏物語」を記したとされるのが詩人・藤原為時の娘の紫式部(本名・不明だが、「源氏物語」の最も重要なヒロイン・紫の上=若紫に因んでネーミングしたと言われる)。
 
その紫式部は幼少時より、難しい漢文を読みこなすなど、才媛としての評価が高かった女性だった。
 
中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)=藤原彰子の家庭教師でもあった紫式部が、持ち前の才能を発揮した後、平安貴族・藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚した事実が分かっているが、年齢差が大きい夫の病死で寡婦となり、深い哀しみに包まれたと想像できるが、詳細は全く不分明である。
 
一切は、紫式部に関する通説と、中宮彰子の出産準備や、道長からの夜の誘いを断ったエピソード、更に、清少納言への批判(「清少納言こそしたり顔にいみじう侍りける人」と記述)など、当事の宮廷社会の生活がリアルに描かれている、貴重な史料・「紫式部日記」(紫日記)の記述の内実に基づいているからである。
 
このように、貴族文化が隆盛を極めた平安中期に呼吸を繋ぎながら、生来の抜きん出た表現力を具現化した当の作者の実像が、「謎多き・紫式部」というイメージを抱かせる興味深い背景も手伝って、信憑性に欠ける諸写本が出回っているのみで、肝心の原本が現存していない事実で分明なように、「源氏物語」という名で語られ続けてきた、一級の「謎多き文学」としての評価に繋がったとも言えるだろうか。
 
 

心の風景 受難の文学としての「源氏物語」 ―― その解放の雄叫び  よりhttp://www.freezilx2g.com/2017/06/blog-post.html