人類は滅亡するのか

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1  「どうせ、人類が滅びるんだから」
 ―― そう思えば、かえって気持ちが楽になる
 
 
  
「2012年人類滅亡説」が、真しやかに吹聴されていた。
 
「マヤ予言」のことである。
 
2012年12月21日から12月23日頃に、「人類が滅亡する」という予言だったが、例によってと言うべきか、ものの見事に外れてしまった。
 
大体、マヤ予言は、マヤ文明で用いられていた「長期暦」(スペインによる征服以前の文明・「メソアメリカ文明」で使用されていた長期間の暦)が、この時期に区切りを迎え、マヤ暦=「長期暦」が終焉してしまうが故に「人類が滅亡する」とされていた。
 
「2012年人類滅亡説」の発信元は、アメリカの「ニューエイジ」(反近代の汎神論的ムーブメント)の影響を受けたホゼ・アグエイアス(マヤ暦研究の第一人者)。
 
このホゼ・アグエイアスが「2012年人類滅亡説」を勝手に誤読・吹聴し、声高に提唱した責任は免れないが、厄介なことに、この「長期暦」を、世界各地に必ず散在する「滅亡マニア」がいつものように飛びついて、自らの趣味を叶えただけで満足し、「泰山鳴動して鼠一匹」のうちに自己完結する。
 
わざわざ、「2012年人類滅亡説」を否定する文面(2012年6月30日)を大きく掲載した朝日新聞記事が記憶に残るが、エビデンス不要の「滅亡マニア」の一掃を意図したものなのか判然としない。
 
「2012年人類滅亡説」が、大手メディアを動かすほどのインパクト、或いは、好奇心を持ち得ていたということなのか。
 
思うに、雨後の筍(たけのこ)のように、次々に出てくる「人類滅亡の予言」は、今や、いずれの国の大衆文化の趣味の範疇に含まれると言っていい。
 
だからこそ、エビデンス不要の「滅亡マニア」の一掃を意図しても、「ゲームオーバーだ」と観念し、次の予言を探しにいくだけだろう。
 
ただそれだけのことだが、私たち人間は、このような「ゲーム」に本気でのめり込む習性があるとしか言えないのだ。
 
しかし、「人生を楽しみたい」という、シンプルなモチーフばかりではあるまい。
 
「滅亡マニア」のモチーフの深層に横臥(おうが)しているのは、悠久の「歴史時間」の砂粒の如き一点で呼吸を繋ぐ、自分の「人生時間」に何某(なにがし)かのパンクチュエーション(句点)を与え、そこに何某かの意味づけをすることで、相応のアイデンティティを確保する心理が含まれているのではないか。
 
社会の変化・自然の猛威、そして、自分の人生に対する「漠然とした不安」。
 
この「漠然とした不安」を持つ人ほど、それを払拭するための手品を求める思いが強いだろう。
 
「どうせ、人類が滅びるんだから」
 
そう思えば、かえって、気持ちが楽になる。
 
「漠然とした不安」に収斂される、自らが負うべき何某かの問題解決の労力から解放されるからである。
 
そのことで手に入れた気分が「漠然とした不安」を希釈できるので、様々に絡み合った「囚われ感」からも解き放たれるのだ。
 
開き直れるのである。
 
踏ん切りもつく。
 
この気分が継続できれば、やりたいことを見つけ、「漠然とした不安」を希釈する程度において打ち込めるかも知れない。
 
「漠然とした不安」を希釈し、様々に絡み合った「囚われ感」から解き放つためには、「人類滅亡」と共に、自分の「人生時間」にパンクチュエーションを打つに足る「思想」が欲しい。
 
できれば、エビデンス不要の簡便な情報処理でいい。
 
そのためには、ホゼ・アグエイアスのような人物が出て来て、「思想」=「確信的な予言」を唱えて欲しい。 
 
かくて、「人類滅亡の予言」は雨後の筍(たけのこ)のように次々に出てくるので、それに飛びつけばいい。
 
だから、相当程度の確率で本気度の高いこの「ゲーム」に、誘(いざな)われるように夢中になる人々のラインが切れることなく、その終わりが見えないのである。
 
それもまた、私たちの趣味の問題なのである。
 
 
 
 
2  「この世の終わりに生きている者」が、「この世の終わりに生きていない者」に対して、「この世の終わりに生きている者」の恐怖感の「共有」を迫っていく
 
 

ここで私は、ラース・フォン・トリアー監督の「メランコリア」という傑作を思い起こす。
 
ストレスの過剰な累加によって脳内の神経細胞が傷ついてしまうが故に、「うつ病」の深刻な発現を繰り返していたヒロイン・ジャスティンは、まるで灰色の毛糸が絡まって、足を取られて進めない心の地獄に囚われていた。
 
結婚という、人生の重要な節目になるような大きなステージの場で、「うつ病」が発現してしまったジャスティンにとって、それまでの「頑張り」の世界に復元するには相当の無理があった。
 
夫との結婚の解消が必然化され、上司を罵(ののし)るジャスティンの狂気は、今や、誰も止められない。
 
うつ病」の「地獄」と思える状態に捕捉されたジャスティンは、一日中、眠りっぱなしで、もう自分の力で立ち上がって、歩くことさえ儘(まま)ならなかった。
 
真面目一方の姉のクレアに抱きかかえられて、浴槽に辿り着いても、入浴すらもできない始末。
 
そんなジャスティンに変化が起こった契機は、姉妹で乗馬の散歩に出たときだった。
 
惑星の接近衝突危機を感知したのである。
 
あれほどまでに、「うつ病」の「地獄」に拉致されていたジャスティンの人格は、加速的な回復を果たしていく。
 
「地球は邪悪よ。嘆く必要はないわ、地球は消えても。私には分る。地上の生命は邪悪よ」
 
ジャスティンが、クレアに言い放った言葉である。
 
夜半に全裸になって、「メランコリア」と命名された惑星の接近を見つめ続けるジャスティン。
 

彼女は今、浄化する気分になって、「メランコリア」の接近を受容しようとするのだ。

「無」になることで、宇宙と同化できると信じるのだろう。

 
一方、常識的なクレアは、「メランコリア」の接近を極端に恐れている。
 
最悪の場合、地球を擦過したり、衝突したりすることで、「終末」の事態を迎える危機に過剰に反応してしまうのである。
 
「衝突しないの?」
 
夫のジョンに尋ねるクレア。
 
「明日の夜、惑星は通過する」
 
余計な心配をかけないように、ジョンは不確実な情報を、妻を安心させるために与えていくが、非常時の用意を万全に整えていたように、内心は大きな不安ではち切れそうだった。
 
それが、ジョンの厩舎内での自殺に繋がった。
 
近村から人影も消え、邸の執事の姿すらも見えなくなり、絶望的な状況を感受したクレアは、息子のレオを連れて脱出を図るが、今や、逃げ場すらなく、本来は存在しないはずの19番ホールの中枢で、激しく叩きつけてくる雹(ひょう)から一人息子を守ることだけが、選択肢を持ち得ない彼女の唯一の行動だった。
 
この辺りの、イメージ喚起力の凄みに圧倒される思いである。
 

時代の風景 「人類は滅亡するのか」 より抜粋http://zilgg.blogspot.jp/2017/06/blog-post_13.html