それ以外にない場所を持ち、それ以外にない人生を生き、そして土に還っていく ――  或いは、共同体の底力

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1  大旱魃から県民を救った讃岐農民の血の滲むような努力
 
 
 
 
 
瀬戸内海の小島に「農業滞在型農園施設」(ラントゥレーベン大三島今治市滞在型農園施設)というスポットがあり、そこに都会生活をしていたプログラマーが移住し、3年間、島の人たちとの交流を通して、みかん農家として独立するために必要なノウハウを学び、必要なものが手に入らない不便さの中で、今も農業を繋いでいる。
 
「理想的な場所」(本人の言葉)を得て、「都会と地域の交流の輪が、瀬戸内海に浮かぶ小さな島に活気をもたらしている」と、「愛媛ふるさと暮らし応援センター」のサイトは報告している。
 
また、浦島太郎伝説で知られ、農林・漁業が盛んな三豊市(みとよし・香川県西部)は典型的な瀬戸内海式気候だから、県外からの移住の希望も多いと言われる。
 
いずれの例も、都市から田舎に移住する「Iターン現象」の事例であるが、大都市圏に産業と人口が集中し、地方の中山間地域(都市や平地以外の農業地域)・離島で起こっている過疎化の悪循環という、深刻な問題のアンチテーゼとして生まれた大分県の「一村一品運動」(一つの特産品を育てることで地域の活性化を目指す)・「ふるさと創生事業」(自治体が国から1億円を交付され、地域振興に役立ていく事業)など、地域活性化(町おこし)の成功例である。
 
「Iターン現象」して定住者となった人たちによって、最大の悩みだった過疎化の悪循環が人口増加に結ばれることで地域活性化に成功し、「入る者」・「受け入れる者」の双方のメリットが保証されるのである。
 
但し、「Iターン現象」による地域活性化の成功例の推進力になったのが、自治体の強力なフォローアップ体制が有効だった地域に限定されている。
 
だから、このフォローアップ体制が弱い地域では、依然として、移住者が定着することなく、都市に戻っていくUターン現象の問題を抱えている。
 
しかし、南北ともに、四国山地中国山地季節風が遮られているため、1年を通じて雨量が少ない瀬戸内地域では、香川県讃岐うどんに象徴されるように、小麦を育てる畑作が中心で、厳しい農業経営を強いられてきた長い歴史がある。
 
その厳しい歴史が刻んだのが、「1994年渇水」と呼ばれる、香川県で起こった今世紀最大の大旱魃(かんばつ)だった。
 
早明浦(さめうら)ダムの貯水量が著しく低下し(8月19日には0パーセントと干上がってしまった)、古くから農業(灌漑)用水を確保するための溜め池の貯水量が地肌を見せるに至り、池の底に草が生えてしまい、トイレの水にも困るばかりか、農作物が枯れる事態に陥り、2ヶ月間でおよそ13億の損害が出したのである。
 
1994年のことである。
 
水を必要とする「米作り」に深刻な影響を与え、枯れていくのだ。
 
この致命的な水不足から市民生活を守るには、農業用水を減らし、それを都市に回すという選択しかなかった。
 
しかし、その行為は農産物の死滅という、殆ど紙一重の極限状態の選択だった。
 
「分水工」(水路の流水を必要な所へ分流させる施設)での昼間や夜間の見回りなど、耕地面積に応じた水の配分を断行し、水の管理を徹底的に行う讃岐農民。
 
枯死寸前の水田への給水と、水田を守るために給水を止めた「犠牲田」
 
水が入ったら給水を止めてしまうために、水田に立てられた旗。
 
「走り水」(急きょ、稲のために水を入れる)による給水。
 
「夜水」と呼ばれる夜間配水と、「股守り」(またもり・分水工を管理をする人)による3交代制で行われた「水番」の実施。
 
昼夜を問わない命懸けの仕事だった。
 
「溜め池」や「用水」を作り、一粒でも多くの米を作りたいという願いを持つ讃岐農民の、その血の滲むような努力が、大旱魃から県民を救ったのである。
 
昔も今も、瀬戸内海地域の農業は雨量が少ないため、厳しい現実があるのだ。
 
 
 
 
 
2  瀬戸内地方の宝を不要にするほど、時代は大きく変わったのだ
 
 
 
 
 
海上保安庁海洋情報部によると、瀬戸内海には、外周が0.1Km上の島の数は727あるそうだ。
 
これは、「国際水路機関」(水路測量の手法や水路業務の技術開発等を促進するための技術的、科学的な活動を行う国際機関・外務省)の基準で、「水で完全に囲まれた陸地の一つ」という定義に因っている。
 
同名の島名が多いので分かりづらいが、広島・愛媛・山口・香川という順になっている。
 
その727の島の一つに、宿禰(すくねじま)という、難しい名の小島がある。
 
周囲約400mの宿禰島は、広島県三原市佐木島(さぎしま)に属し、「大野浦海岸の前に見えるお椀を伏せたような小さな島」(三原市HP)である。
 
もっとも、新藤兼人監督の映画「裸の島」のロケ地の島と言った方が分かりやすいだろう。
 
中央の高さが20mの頂上に、「裸の島」の碑が設置されているが、現在は無人島であるから島への定期船は存在しない。
 
モスクワ国際映画祭グランプリを受賞したことで、暫くロケ地への観光客が訪れていたが、長らく民有地であった宿禰島を新藤監督の親族が買い取り、三原市に寄贈されるに至った。
 
今や、「伝説の島」として、日本映画史に刻まれている宿禰島をロケ地にした「裸の島」で描かれた慎ましい生活風景は、新藤監督の理念の結晶だから映画批評として成立しても、瀬戸内の島に住む人たちの現実を反映しているとは言えないだろう。
 
但し、瀬戸内地方には、前述したように、水不足による大旱魃の危機との厳しい闘いが常態化しているので、「裸の島」の生活風景を「全身理念系」として片付けることはできない。
 
―― 「裸の島」の批評については既に書いているので、ここでは視点を変えて、「裸の島」で日常を繋いだ物語の家族の「普通の生活風景」の様態に言及したい。
 
何より、電気・ガス・水道がない「裸の島」の「普通の生活風景」の物理的アイテムの中枢にあるのは、それなしに慎ましい生活すら確保し得ない伝馬船(てんません)である。


伝馬船とは、櫨櫂(ろかい・船を漕ぐための道具)によって操縦される木造の小型船である。

 
だから、夜が明けきらぬうちから、2人の男の子を持つ夫婦は、隣の大きな島(佐木島)まで、この伝馬船を漕ぎ、その日の畑作に必要な分だけ給水する。
 
これが、家族の一日の始まりである。
 

4つの桶を天秤棒に担いで往復するこの作業は、夫婦の日常性の重要な一部になっている。

 
伝馬船が戻って来る頃には日が昇っていて、息子たちはその間、飯を炊き、朝食の準備に余念がない。
 
水を運んで来た夫婦は、昨日もまたそうであったように、小さな庭に作られた食卓につき、黙々と朝食を済ませ、次の作業に移っていく。
 
伝馬船こそ、「裸の島」の4人家族の命を繋ぐ船であることが判然とするだろう。
 

時代の風景 「それ以外にない場所を持ち、それ以外にない人生を生き、そして土に還っていく ――  或いは、共同体の底力」 より抜粋http://zilgg.blogspot.jp/2017/07/blog-post.html