振れ幅の大きい複雑な人間が縋り付く、ごく普通のサイズのヒューマニズムに収斂される「弱さの中のエゴイズム」 ―― 映画「羅生門」の本質

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1  高貴な侍夫婦が深い森の奥を通りかかった時、その事件は起こった
 
 
  
邦画史上、最高の作品を選べと言われたら、私は躊躇なく、以下の3作を挙げるだろう。
 
成瀬巳喜男監督の「浮雲」・今村昌平監督の「赤い殺意」、そして、本稿で言及する黒澤明監督の「羅生門」である。
 
振れ幅の大きい、複雑な人間の本質に迫るような完成度の高さを見せ、魂が震えるようなこの3作を超える邦画は今後も出現しないと、私は思っている。
 
(因みに、現代の映画監督の作品の中から敢えて選べば、グリーフワークを完璧に描き切った是枝裕和監督の「幻の光」と、「人生」の「どん底」のゾーンで動けない女の中枢を、男のストロークが移動させていく縁(よすが)の物語を過不足なく描き切った、呉美保監督の「そこのみにて光輝く」の2作のみで、文句の付けようがない秀作だった)
 
―― 以下、映画「羅生門」の簡単なストーリーラインから。
 
時は平安時代
 

場所は、京の都の羅生門

因みに、羅生門は羅城門と呼ばれ、古代日本の都城(とじょう・中国の影響を受けた都市)の正門のこと。 

 
度々の戦乱で、その門の外観は大きく崩れている。
 
その崩れかけた一角を狙い撃ちするかのように、弾丸の雨が激しく叩きつけていて、その門下には、二人の男が雨宿りをしている。
 
杣売(そまうり=きこり)と旅法師である。
 
そこに、雨宿りのために、一人の下人(げにん・身分の低い者)が走り込んで来た。
 
この3人のリアルな会話によって、杣売が目撃した、一人の侍の死という忌まわしき事件の内幕を、そこに関わった男女の異なった「物語」のうちに生々しく再現されていく。
 
以下、再現された事件の顛末(てんまつ)である。
 
―― 侍烏帽子(えぼし)を被った武士と、市女笠(いちめがさ・代表的な女性用かぶり笠)を被った女が馬に乗り、この侍夫婦が深い森の奥を通りかかった時、その事件は起こった。
 
盗賊・多襄丸が侍の妻の色気に反応したのは、彼が昼寝をしている最中だった。
 
多襄丸は、侍の目前で妻を強姦する。
 
当の侍は、多襄丸によって縛り上げられている。
 
時が経ち、森の奥に侍の死体が残されていたが、多襄丸と侍の妻の姿は消えていた。
 
この杣売の話から、殺人事件の様相を呈していく。
 
映像は、検非違使庁(けびいしちょう・京の都の治安維持を所管する役所)に呼び出された多襄丸と侍の妻、そして、事件を役人に届け出た目撃者の杣売と、侍夫婦を目撃した通旅法師。
 
更に、巫女によって呼び出された侍の霊。
 
事件の当事者3人の証言が、そこで開かれるのだ。
 
ところが、事件の顛末は、証言者によって大きく食い違い、最後まで、事件の真相は闇の中。
 
夫である侍との対決で勝った者に随伴すると言う、侍の妻の求めに応じて決闘になり、侍を倒したものの、いつの間にか、侍の妻は消えていたと供述する。
 
「俺は男を殺すにしても、卑怯な殺し方はしたくなかったのだ。そして、あの男は立派に戦った・・・俺は男が倒れると同時に、女の方を振り返った。女はどこにもいない。俺たちが太刀打ちを始めると、その恐ろしさに逃げ出したんだろう。よほど狼狽(うろた)えたと見えて、山下に出てみると、女に忘れられた馬が、静かに草を食っていた。俺はあの女の気性の激しさに心魅かれたのだ。しかし結局は、手篭(てご)めの女に過ぎなかった。俺は捜す気にもなれなかった」
 
これが、多襄丸の証言。
 
また、盗賊に体を奪われた時の、夫の侮蔑の視線に耐えられず、錯乱状態の中で、夫に殺してくれと短刀を差し出すが、気が付いたら、短刀は夫の胸に突き刺さっていたと打ち明ける。
 
「私は、その眼を思い出すと、今でも、体中の血が凍るような思いがいたします。夫の眼の中に煌(きらめ)いていたのは、怒りでも、悲しみでもありません。ただ、私を蔑(さげす)んだ冷たい光だったのです」
 
これが、侍の妻の証言。
 
そして、もう一人。
 
巫女によって呼び出された侍の霊。
 
多襄丸に付いていく妻の行動に絶望し、自ら短刀で自害したが、意識朦朧の中で、誰かが短刀を引き抜くのを感じながら、息絶えたと語る。
 
「美しい妻は、現在縛られている夫の前で、何と罪人に返事をしたか・・・“どこへでも、どこへでも連れて行ってください”。妻は確かにこう言った!この言葉は、嵐のように今でも遠い闇の底へ、真っ逆さまに私を吹き落とそうとする・・・これほど憎むべきことが、これほど呪われた言葉が、一度でも人間の口を出たことがあろうか・・・」
 
何らかの形で命を落とした侍には、妻への憎悪が一貫して感じられる。
 
余程、その夫婦関係の生活が円満に営まれていなかったのであろう。
 
これが、侍の霊の証言。
 

この3人の証言の矛盾に混乱する杣売と旅法師が、羅生門での下人とのリアルな会話の応酬になる。

 
以上が、黒澤明監督の最高傑作と私が評価する、映画「羅生門」の簡単なストーリーラインである。
 
以下、映画の本質的な部分のみを切り取って批評したい。
 
 
 
 
2  「杣売の愁嘆場と、その乗り越え」に勝負を賭けた黒澤明橋本忍
 
 
  
映画「羅生門」は、杣売である一人の中年男の心理分析が中枢となる物語であると、私は考えている。
 

だから、この映画の作品的価値も主題性も、杣売の心理分析なしには成立し得ないミステリアスな人間ドラマである。 

 

全て杣売の疑問から始まり、杣売の「愁嘆場」(ここでは、「生き方」が試される「地獄巡り」という大袈裟なイメージで、自己基準的に使用)を経て、そこを乗り越えていくこの男の笑顔によって括られていくのである。 

 
物語の中で、この男が語ったことの全てが、この映画を支配する力を持っているのだ。
 

映画の導入は、杣売の「わしにはさっぱり分らねぇ」という、如何にも物語的な語りによって開かれた。 

 
杣売にとって、三日前の事件は、自分が訴えられるかも知れない恐れがある以上、事件の話題から遠ざかりたいと考えるのが普通である。
 
そこが、旅法師の「分らなさ」との決定的違いである。  
 
旅法師が「分らなさ」に拘ったのは、単に、検非違使庁での三者の証言があまりに乖離していたからである。
 

彼は検非違使庁の現場に居て、三者(盗賊・多襄丸と侍夫婦)の証言の乖離に接したことと、その証言の内容のおぞましさに人間不信の感情を抱いてしまったのである。 

 
しかし、杣売が「分らなさ」に拘ったのは、単に、第三者的な立場に置かれた者の人間不信の感情の故ではない。
 
杣売は明らかに、事件の現場に居合わせていたのである。
 
杣売は現場にいて、多襄丸によって犯された女と、その傍らで縛られている侍の惨めな姿を目撃している。
 
そして、その現場で展開された、おぞましい修羅場の一部始終を視界に収めているのだ。
 
勿論、この仮説は、杣売の羅生門下での話を真実と認知することを前提にする。  
 

しかし、この前提を崩せないのは、杣売の話が、下人に追い詰められた後の逃れられない状況下での表現であるということ以上に、事件を目撃した事実を下人に認めたこの男に、その事件現場の再現の説明に嘘を加える必要がないからである。 

 
確かに、この男は嘘をついていた。  
 
草むらに落ちた短刀を盗んだことである。
 
しかし、それは事件の流れの後の行動であって、事件の渦中の説明とは直接的には脈絡しないのだ。
 

もっとも、侍の死が自決であったとすれば、杣売は、巫女の語りの中で出てくる短刀盗みの下手人であったということになるが、これは疑わしい。 

 

なぜなら、侍の証言は自決を前提にしているから、自分の体に刺さった短刀が現場に落ちていなかったので、巫女の口を借りて何者かによって短刀を抜き取られたという説明をしない限り、合理的に説明できなくなってしまうからだ。 

 
それ以外に、杣売の証言を疑えない理由は幾つかある。  
 
多襄丸が侍の殺害を白状したこと、夫婦間で緊張感が生まれていたこと、杣売自身が事件を役人に届けたこと。
 
更に、侍の証言の中枢が、妻への憎悪に集中していたこと、そして、その妻が事件後に姿を眩(くら)ましていたということ、等々。
 
これらの事実性が、本作では殆ど映像化されていたのである。  
 
これらは全て、杣売の証言に合致するのだ。
 
では、この男の「分らなさ」の内側にあるものは、一体、何だったのか。  


事件の現場を直接目撃した男が、同時に、検非違使庁で事件の三人の関係者の証言を耳にしたとき、男は当然の如く、それらの全てが偽証であり、真実から遥かに隔たった作り話であることを確認できたであろう。

 

そして、普通の大人の感覚なら、それらの作り話の根柢にあるものの偽善性、虚栄心、自己顕示性、更に自我防衛意識が働いていたと受け取るに違いない。 

 

だから彼らの嘘には、自分が供述した、「短刀取り」の嘘に通底する心情ラインを読み取ることができたはずだ。 

 
それにも拘らず、彼は自分の「分らなさ」を、性根の悪そうな下人に自ら積極的に話しかけていったのである。
 

黙っていれば済むものを、わざわざ自ら話題にしたという事実から読み取れるのは、明らかに、この男自身が、その「分らなさ」の中で混迷・迷妄し、その心中の不可解性について打開し、それを少しでもクリアにしたいという思いがあったという切迫した心理である。 

 
この心理は、自分の嘘をカモフラージュする次元を超えてしまっているのだ。
 

私はこの一点においても、この男の内側に張り付く、ごく普通のサイズの誠実さを疑えないのである。 

 

心の風景 振れ幅の大きい複雑な人間が縋り付く、ごく普通のサイズのヒューマニズムに収斂される「弱さの中のエゴイズム」 ―― 映画「羅生門」の本質 よりhttp://www.freezilx2g.com/2017/07/blog-post_25.html