犯罪被害者のグリーフワーク ―― その茨の道の壮絶な風景

イメージ 1

1  「犯罪被害者は泣き寝入りしてはならない」
 
 
 
犯罪被害者等基本法」という法律がある。
 

「犯罪被害者等の多くは、これまでその権利が尊重されてきたとは言い難いばかりか、十分な支援を受けられず、社会において孤立することを余儀なくされてきた。さらに、犯罪等による直接的な被害にとどまらず、その後も副次的な被害に苦しめられることも少なくなかった。 

 
もとより、犯罪等による被害について第一義的責任を負うのは、加害者である。しかしながら、犯罪等を抑止し、安全で安心して暮らせる社会の実現を図る責務を有する我々もまた、犯罪被害者等の声に耳を傾けなければならない。
 
国民の誰もが犯罪被害者等となる可能性が高まっている今こそ、犯罪被害者等の視点に立った施策を講じ、その権利利益の保護が図られる社会の実現に向けた新たな一歩を踏み出さなければならない」
 
この一文が、基本法の前文である。 
 
以下、「小泉内閣メールマガジン」(第189号 2005年8月5月26日)から、この法が成立した経緯を、「全国犯罪被害者の会」(あすの会岡村勲代表幹事の特別寄稿を引用する。
 
全国犯罪被害者の会あすの会)は、被害者等の権利と補償制度の確立を求め運動をはじめた。全国各地を歩き被害者の実情を訴えた。政府、政党、裁判所、弁護士会、マスコミ、経済界、教育界、あらゆるところを訪ねた。
 
2002年2月から、小泉総理に要望する署名活動を全国的におこない、総数55万7215人に達した。39万63人集まった段階で、杉浦現内閣官房副長官の紹介で総理にお会いする機会をいただいた。
 
2年前の7月8日の昼下がり、私たち犯罪被害者の会(あすの会)の幹事3人は、首相官邸応接室で、小泉総理にお目にかかった。総理は、私たちの訴えに耳を傾けてくださった。
 

『そんなにひどいのか。今まで放置してきたことが問題だ。政府と党で協力して取り組もう』と、力強くおっしゃられた。 

 
この場での総理の発言を機に法律制定への動きは一気に加速した。そして、2004年11月に自民、公明、民主3党の合意による議員立法として法案が提出された。ここにこぎつけるまでに法案作成にあたった議員の方々には、月2、3回のペースで、朝8時から精力的な検討に取り組んでいただいた。こうして、12月1日、全与野党の賛成で、犯罪被害者等基本法が誕生したのである」
 
この基本法の成立によって、被害者個人の尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい処遇を保障される権利として明記され、その回復を図ることが、国・地方公共団体・国民の責務であると規定されたのである。
 
まさに、国のトップが本気で動けば、理不尽な状態に置き去りにされた犯罪被害者の困難な壁を打ち破り、立法化できるという典型的な事例である。
 
「犯罪被害者は泣き寝入りしてはならない」
 
至極当然の主張が、強い語調で、全国犯罪被害者の会に集う人々から聞こえてきそうである。
 
そして、「犯罪被害者等基本法」の立法化に大きく関与した刑事事件がある。
 
言うまでもなく、1999年4月14日に山口県光市で発生した少年犯罪事件・所謂、「光市母子殺害事件」である。
 
光市母子殺害事件」の甚大な被害者・本村洋(ひろし)さんが深く関与した、この「全国犯罪被害者の会」の血の滲むような努力が、国家を動かし、メディアを動かし、世論を喚起したのである。
 
以下、「光市母子殺害事件」の犯罪被害者・本村さんの、9年間に及ぶ、その茨の道の壮絶な闘いの深奥に肉薄したい。
 
 
 
2  「私にはその時の記憶がまったく欠落している」
 
 
 
その日、連日のように多忙で、夜遅くまで新日鉄のエンジニアとして、現場の生産活動に直接関わる残業を終え、光市の海辺に近い場所にある社宅に本村さんが帰って来たのは、夜の10時前頃だった。
 
社宅のドアノブに手をかけた時、本村さんに悪夢のような予感がよぎった。
 
普段はしっかりと掛けられているドアの鍵が掛けられていないのだ。
 
「弥生…弥生…」
 
胸騒ぎを覚えて部屋に入った本村さんは、妻の名を呼んだが、全く返事がなかった。
 
テーブルやカーペットの位置がずれ、ストープの上にあるはずの薬缶(やかん)が転げ落ちているのを発見したのは、奥の居間に入った時だった。
 
妻の名前を呼んでも、相変わらず返事はない。
 
明らかにおかしい。
 
夕夏(ゆうか)ちゃんが泣きやまない時、弥生さんは、よく外に出てあやすことがあったので、胸騒ぎを抑えながら、外に出て公園やゴミ捨て場の方を見に行ってみたが、夜の帳(とばり)が下りているのに、二人の姿はないのだ。
 
部屋に戻った本村さんは、弥生さんの実家の母に電話をして事情を話すが、義母は「何も聞いてないわよ」と言って、案じるばかり。
 
その直後、本村さんは受話器を持ち、義母との話を繋ぎながら、押入れの襖(ふすま)を開けてみた。
 
その瞬間だった。
 
不安に駆られる本村さんの視線に、信じられない光景が飛び込んできた。
 
押し入れの下の段に、明らかに、「人間の形をしたもの」が押し込まれていたのである。
 
「人間の形をしたもの」には座布団が4、5枚かけられていて、その隙間から足首が見えたのだ。
 
ぶるぶる震えながら、その座布団を撥(は)ね除(の)けた。
 
それは、あまりに凄惨で慄然(りつぜん)とする光景だった。
 
ガムテープで口を塞がれた弥生さんの遺体が、全裸の状態で、着ていたカーディガンを腕に巻き付けたまま、手を頭の上で縛られていたのだ。
 
首を絞めて殺された弥生さんは、その朝、夕夏ちゃんと一緒に、本村さんをにこやかに送り出してくれた美しい妻ではなかった。
 
その体は冷たく硬直し、顔は青紫に鬱血していた。
 
その表情は、無念の中、苦しみ、踠(もが)きながら死んだ事実を、23歳の若き夫である本村さんに、情け容赦なく伝えるのに十分過ぎるほどの凄惨さだった。
 
本村さんは、弥生さんが死後7時間も経過していた事実を、あとで知らされることになる。
 
そして、犯人のFは弥生さんを絞殺した後、汚物に塗(まみ)れた下半身を拭き取ってまで、死後レイプに及んだことを、本村さんはのちの裁判で知る。
 
裁判で、そのおどろおどろしい事実を知った時の本村さんは、感情の爆破を必死に抑えることしかできなかった。
 
以下、本村さんの手記から、我を失ってしまったこの時の極限状態について引用する。
 
「どんなに苦しかっただろう。どんなに辛かつただろう。そう思うと、ただただ涙が溢れた。しかし、あまりに変わり果てた弥生の姿を発見した時の私は、そんなことを知る由もなく、我を失ってしまったのだ。身体に触った時、硬くひんやりとした感覚が手に伝わってきた。
 
義母は、この時、私が何かを叫んだと言う。義母との電話で受話器を持ったまま、私は弥生を発見したのである。しかし、私にはその時の記憶がまったく欠落している。逆に、『どうしたの?何があったの?』。電話の向こうで、義母が叫んでいたような気がする。動転した私は、ただ、『大文夫です。大文夫です……』と繰り返し、電話を切ったそうだ。それからどれだけの時間が経ったのだろう。
 
十分か、二十分か。私には何かすべてが夢の中の出来事のように思えた。茫然とした私は、ゃっと110番をした。『妻が殺されています……』。それだけ告げるのが精一杯だった。その後、何を警察と話したか、全く覚えていない」
 
絶対に喪ってはならない愛する者を、喪った時の辛さ。 
 
まして、その喪失が残虐な殺人事件に起因する「突然死」だったら、残された者の衝撃は筆舌に尽くしがたいだろう。
 
拠って立つ自我の安寧の基盤が、根柢から崩されてしまったのである。
 
そればかりではない。
 
本村さんは、絶対に喪ってはならない者の死の第一発見者だったのだ。
 
この激甚な心的外傷がフラッシュバルブ記憶(閃光記憶)と化し、これ以降の本村さんの自我にべったりと張り付いてしまうのである。
 
本村さんが、「私にはその時の記憶がまったく欠落している」と言うのは、フロイト流に言えば、外界からの刺激を調整する自我の機能が麻痺したと考えるのが正解である。
 
他の概念を用いれば、セルフコントロール(感情・思考・行動の自制・抑制)の能力の機能が限界を来たし、「自我消耗」の状態に陥ったのである。
 
認知心理学のフィールドで捉えれば、セルフコントロールの資源にも限りがあるということだ。 
 
それ故、この時点での本村さんの反応は、衝撃の大きさがアウトオブコントロールの状態を惹起し、完全に我を失ってしまったのである。
 
当然過ぎる反応であるという外にない。
 
これが、本村さんが陥った極限状態の本質である。


心の風景  「犯罪被害者のグリーフワーク ―― その茨の道の壮絶な風景」 よりhttp://www.freezilx2g.com/2017/09/blog-post.html