「蟻の一穴」から堤も崩れる

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ムハンマドマホメット)の血統重視のシーア派に対し、ムハンマドの教えを重視するスンニ派スンナ派)のイスラム原理主義ワッハーブ派を国教としているサウジアラビア
 
言ってみれば、「コーラン至上主義」に拠って立っているが故に、サウド家の支配による絶対君主制の下で、悪名高い「宗教警察」(勧善懲悪委員会)の厳しい取り締まりが常態化していて、ヘジャブ(髪を隠すスカーフ)の着用の義務化、車の運転禁止、付き添いなしの外出禁止、異性交遊禁止、女性の婚前・婚外交渉やレイプ被害による処女に対する「名誉の殺人」、家庭内暴力の横行等々、女性の人権侵害が目を覆う惨状を否定すべくもない。
 
そんなサウジアラビアの惨状を、自由と民主主義を基調とする国民国家で呼吸を繋ぐ私たちが一刀両断するのは易しいが、「国民から恐れられている勧善懲悪委員会の委員長が交代したほか、同国初の女性副大臣が誕生した」(AFP通信)という記事を読んだりして、この国の歴史を丹念に掘り起こしていく限り、「最悪な国家」であると簡単にラベリングする言動に翻弄されることへの自戒の念を捨ててはならないだろう。
 
このAFP通信の記事をフォローすれば、強硬派とされてきた勧善懲悪委員会の委員長が交代し、後任に決まった人物の衛星テレビ局での会見では、国民の心配事に配慮すると述べ、宗教警察の姿勢が変わる可能性を示唆していた。
 
今、内政と外交において、イスラエルに対する和平の最初の試みである「アラブ和平イニシアティブ」(2002年)を提唱したり、映画館の解禁や女性の登用などサウジアラビアの近代化に努力したアブドラ前国王の死去後、サルマン現国王が後継者として即位するや、サルマン国王は数日のうちに権力構造を変革し、多くの日常実務を子息や甥に委譲した。
 
世界で最も抑圧的国家の一つであるサウジアラビアだが、新国王政権は旅行禁止の緩和・撤回の実施など融和的な措置も取っていて、相応の効果を上げているのも事実である。
 
現に、欧米の観念系を有するサウジの王族が、映画製作の資金を提供出したとも言われるが、このような政治的背景なしに、「自転車を買います」と言い切り、何ものにも妥協しない強(したた)かな少女の物語(「少女は自転車にのって」)の製作・公開は不可能だったであろう。
 
それにも関わらず、男女が公的な場所での物理的同居が禁止されている国であるが故に、「屋内や学校の敷地内のシーンを除いて、私はバンに乗り込み、モニターを見ながら無線で指示を飛ばすというやり方」(インタビュー)で撮影した、ハイファ・アル=マンスール監督の苦労を思うとき、このような女性監督の出現自体が、充分に画期的だったと言えるのである。  
 
複雑な事情を抱える国・サウジアラビアの未来に何が待っているか、私には全く見通しが定かでないが、この映画を観る限り、ハイファ・アル=マンスール監督が言うように、ドラスティックな変革が困難である以上、自国の文化を尊重しながら、「衝突ではなく対話」の累加を通して、「自由・推進力・非武装性」を象徴する自転車への自在な駆動に届き得るに足る、「今・ここ」からの有効なメッセージを提示し続ける選択肢しかないような気がするのである。
 
―― ここまで書いていたら、嫌なニュースが飛び込んでいた。
 
24時間ニュース専門局として有名なCNNによると、リヤドの某家庭で家事手伝いとして働きに来ていたインド人女性が、雇い主から虐待され、その事実を地元警察に通報した後、件の雇い主によって右腕を切り落とされたという事件である。
 
事件発覚後、インド政府はサウジ政府に抗議の意思を伝え、雇用主を殺人未遂罪で訴追することを要求し、第三者による事件捜査の着手も要請したが、CNNはニューデリー駐在のサウジ大使にコメントを求めても正式回答はなく、今後の展開も不分明である。
 
現在、被害女性はリヤドの病院で手当てを受けているということ。
 
その後、判然とした事実は、被害女性が家事手伝いとして働いても給料は支払われず、十分な食事も与えられない劣悪な労働環境を強いられていたというのだ。
 
他にも、ネパール人女性の家事手伝い労働に従事した女性に対する、ニューデリー駐在のサウジ外交官による性的暴行や集団強姦への関与の疑惑も浮上した挙句、件の外交官は罪に問われることなく、出国してしまったというニュース。
 
まだある。
 
今年になって、インドネシア政府は、サウジを含む21カ国に家政婦として自国の女性を送ることを禁止したが、その理由は、殺人罪の立件の根拠が希薄であるにも関わらず、殺人罪に問われたインドネシア人家政婦2人が斬首刑に処されていたという嫌なニュース。
 
これは、サウジ国内での出来事であるが故に、倦(あぐ)むばかりだ。
 
他にもあるが、滅入るだけだから、もう止めよう。
 
いずれにせよ、これらの事件は氷山の一角であろうから、サウジアラビアにおける女性の人権の顕著な現実を変えていくには、前述したように、「今・ここ」の状況で、「何が可能であり、何が可能でないか」を客観的に分析し、「可能であること」から始めていく以外にないのだろう。
 
極端な理想主義に暴走することなく、「蟻の一穴」(ありのいっけつ)から堤も崩れる譬(たと)えのように、旧来の陋習(ろうしゅう)を一気に破壊していくことなど殆ど不可能である現実を受け入れ、どこまでもリアリズムの視座を失わずに、自分の代で見届けることができなくても、一歩一歩前進していくこと。
 
それ以外にないと、私は思う。
 
  
 
時代の風景 「「蟻の一穴」から堤も崩れる」 より抜粋http://zilgg.blogspot.jp/2017/09/blog-post.html